あなたのすべてをください。  翡翠×花梨編
冬晴れの日、穏やかな日差しに少し気温も上がり、春の近いことを感じさせた。
京に応龍が戻り、龍脈も五行の流れも清浄に戻った今、この穏やかな気候も当然のことかもしれなかった。季節の巡りも正しくなり、人の暮らしも落ち着いていくだろう。
花梨は晴れ渡った青い空を見上げて息を大きく吸い込んだ。自分がこの世界にやってきたこと、最初は信じられないことばかりだった。見たことのない世界(ちょっとだけ教科書あたりで見たかもしれないけれど、でも絵巻物とか作り物とか本当のものではなかったし)、全く異なる慣習、言葉が通じるだけは助かったけれど、何をするのも勝手がわからなくて戸惑ったものだ。元の世界に戻るために、と言われるままにやれと言われることをこなしてきたけれど、実際、今になっても自分が龍神の神子だったと言われてもピンとはこない。やっぱり、自分は普通の、ただの、女子高生だというのが一番ぴったりくると思うのだ。自分より随分と年上な人や身分の立派な人から傅かれるのは、少し居心地が悪いし、かなり恥ずかしいし、慣れることができない。
この世界は好きだと思う。今となっては愛着だってある。たくさんの場所に出かけたし、歩いたし、もしかしたら元の世界の電車で通り過ぎるだけの土地よりもずっとずっと愛着があって好きかもしれない。自分の居る場所だと思うかもしれない。出会った人たちだって大好きだ。紫姫も、深苑も、八葉の面々も。一緒にこの京のために戦い、助け合い、乗り越えてきた仲間だから。自分が二人いて、あるいはこの世界がもっと元の世界と近いところにあって。あるいは、普通に車とか飛行機とかで行き来できるところにあったとしたら、どんなにいいだろう。自分の居るべき場所が二つあるというのは、なんて苦しいことなのだろうと思う。
それでも、花梨は決めようと思い、この場所へやってきたのだ。今日、決めようと。
「花梨」
呼ばれて花梨は振り返る。自分をこの場所へ繋ぎ止める、一番大きな原因はこの人だろうと思う。自由で傲慢で自信家で、そしてそのくせ狡いほどに優しいときがある海賊。
「君からの文など珍しいね。紫姫の館まで迎えに行ったものを」
そう言いながら薄く笑みを唇に浮かべて近寄って来る翡翠は、いつもと違う逢瀬に花梨が何かを考えていると気付いているかもしれない。その証拠に花梨の正面に立つと、ただじっと花梨の顔を見つめて目を細めた。何を言うでもなく、花梨の言葉を待つ翡翠に、花梨はつと顔を逸らすと手を広げてこの場を示した。
「覚えてますか? ここで初めて翡翠さんと出会ったの。
 訳もわからないうちに、人質にされちゃって。
 悪い人じゃないとは思ったけど、びっくりしましたよ」
「忘れるはずがないだろう? あのときの君の顔ときたら……」
「きたら、なんなんですか? 突然あんな目に遭わされて驚かない人はいないと思いますけど」
膨れっ面になる花梨に翡翠がそっと手を伸ばす。頬に触れられると、それだけで膨れっ面から恥ずかしげな表情に花梨の顔が変わった。
「野兎を捕まえたかと思ったよ。実際、君は良く跳ね回って私を振り回してくれたけれど」
「……褒め言葉なんでしょうか、それとも子どもっぽいってことでしょうか」
「好きなように。ただ、私は随分と楽しませてもらったけれどね」
さらりと翡翠の言葉が過去形になっていることに気付いて花梨は顔を上げた。翡翠の表情はいつもと変わらないけれど、今日ばかりはその何でも知っているように見える瞳が少しばかり怖かった。頬を撫でていた翡翠の指が花梨の髪に触れて、その幾筋かを風になぶらせる。
「翡翠さん……」
今日、伝えようと思っていたことをどうやって彼に言えばいいのか、花梨はまだ迷っていて口ごもった。その言いにくそうな様子に、翡翠は少し眉根を寄せて溜息をついて口を開く。
「花梨、君が言いにくそうだから、私が言おうか?
 君は、元の世界へ帰るつもりだね?」
京は正しい姿を取り戻し、応龍が京の守護に戻った。花梨がこの世界に留まる理由はもうない。龍神に願えば、元の世界へと戻ることが叶うだろう。花梨は翡翠の言葉に泣きそうな顔になった。
「……だって……」
「責めたりはしないよ。ここでは君は身寄りもない、元の世界とは全く違う世界で生きることは難しいだろう。
 家族を恋う気持ちもわかる」
自嘲気味に翡翠は笑う。それら全てをおいても、というほどに心を奪うことが叶わなかったのは自分のせいだろうと。花梨は俯くとぎゅっと握りしめた自分の手を見つめた。元の世界に帰ろうと決めた。それはもう決めたこと。でも、まだもう一つ、決めたことがあった。それをこの人に伝えたら、どう言われるだろうかと、それが怖くて口にできなかったけれど、でも。花梨は心を決めると顔を上げた。
「翡翠さん……翡翠さんは、伊予の海賊の頭領なんですよね」
突然の花梨の言葉に翡翠は訝しげな表情を浮かべながらも頷いた。それが今話していることと何の関係があるのかと言いたげではあったが、花梨の表情が何か決めたように強い決意を表していたので、何も言わなかった。
「伊予の皆は、翡翠さんのことを頼りにしてるんですよね」
「さあ、どうだろうね。案外、ふらふらしている私に困っているかもね」
「翡翠さんにとっても、なんだかんだと言って、大切な仲間なんでしょうね」
「……まあ、何の縁もない者たちと比べれば少しは愛着もあろうね」
「退屈だって言ったって、伊予や京は翡翠さんには住み慣れた世界ですよね」
「……まあ、他の世界に行ったことはないけれど」
「自分が大変だったのに、わかっているのに、こんなこと言うのって間違ってるかもって思うけど
 私の我が儘だって思うけど、でも……」
花梨は翡翠を見上げた。選べない。どうしたって選べない。どちらも諦められないから、自分はどちらも手に入れることを選んだのだ。
「翡翠さんを大切に思う人も、翡翠さんが大切に思うものも、ここにあるって知ってるけど
 でも、翡翠さんの全部を、私にください。
 そして、私と一緒に、私の世界に来てください……!」
花梨は必死の表情でそう言い切ると、じっと翡翠を見つめた。翡翠は呆気にとられた表情で花梨をしばらく見つめていたが、やがて声をあげて笑い出した。あまりにも予想外の反応に、花梨の肩から力が抜ける。これはいったい、どういう意味なのだろうか?
「……花梨、花梨。君はまったく、面白いね。
 私の予想を超えるよ、君は」
どう答えていいかわからず、花梨は黙り込む。
「今まで私が聞いた中で、一番熱烈な愛の告白だ。そう思って良いのだろう?」
改めてそう言われると、花梨は恥ずかしくなってしまい両手で頬を覆った。その手首を翡翠の手が掴んで身体ごと引き寄せる。
「私の全てが欲しいと言うのだね? 私に全てを捨てて君を選べと」
喉の奥で笑いながら翡翠が言う。花梨は翡翠の腕の中で身体を縮こませながら小さく頷いた。愉快そうに翡翠は笑いながら頷いた。
「いいだろう、花梨。君が望むなら。この世界の全てを捨てよう。
 君の世界で一から冒険を始めるのは、退屈とは縁遠そうだ」
あまりにも簡単に翡翠がそう言ったので、逆に花梨は驚いてしまって顔を上げて翡翠を見つめる。だが翡翠の顔には迷いもなにもなかった。余裕の、表情。
「翡翠さん……ごめんなさい……ありがとう」
小さくそう呟く花梨に、翡翠は笑う。
「謝るのも、礼を言うのも良いけれど、君は自分の聡明さと運の良さに感謝した方がいい。
 さっきまでの私が何を考えていたかわかるかい?」
きょとんとした顔で翡翠を見上げる花梨に、彼は笑いながら応えた。
「去っていく女に追いすがるのは性に合わないが
 姫君を攫ってゆくのは海賊の習い、
 君が私を置いて去っていくというのなら、どうやって連れ去ろうかと考えていたよ」
「だが、どうやら攫われていくのは、私の方ということのようだ」
それも悪くない、と呟く翡翠に、花梨は強く抱きついたのだった。




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