あなたの口付けをください。 翡翠×花梨編
「うわぁ〜、すごい。京が見渡せる……」
その日、花梨は翡翠と二人で船岡山へ来ていた。船岡山自体は来るのが初めてというわけではない。以前、怨霊を退治するためにやってきている。
が、そのときは怨霊退治が大変で、とても山からの景色を楽しむどころではなかったのだ。突然この京という世界に呼び寄せられ、あなたは龍神の神子だと言われたり、お前を龍神の神子とは認めないと言われたり、そんなのどっちでもいいから、と言うわけにもいかず、ただとりあえず自分は怨霊を封印できるらしく、元の世界に戻るにはそれが必要らしいから、という理由で怨霊の封印を続けてきた花梨である。もちろん、この世界に来るまで『怨霊』などというものを目にしたこともなかったし、それを封印するなどというような、霊能力者みたいな真似事ができた試しもない。今でも怨霊を目にすると、怖いという気持ちが先立つときもある。それ以上になんとかしなくては、と思うがゆえに封印を続けることができているのだと思う。もちろん、そういう自分を守ってくれる存在があることも大きな理由ではあるけれど。
そんなわけで、この世界での花梨は『自分が出来ること』はやっと理解したものの、『自分がしなくてはならないこと』はどちらかといえば他人から『かくあるべし』と言われるがままに行っているばかりな気もして、どうにも頼りない気持ちになるときもあるのだった。しかし、そういう落ち込みかけた気分を浮上させてくれるのも、やはり花梨を守ってくれる人たちで。中でも翡翠は飄々とした態度でいつも花梨をからかったりしながらも、良く外へを連れ出してくれた。
何時の間にか、花梨も翡翠には自分の正直な想いを吐露することが増えた。彼といると気持ちが随分と楽になり、ありのままの自分を見せることができる気がしていた。
「なんだか、今でも信じられないですよ。
 この広い京の未来が、龍神の神子といわれる私にかかっているとか言われても」
改めてそんなことを言いながら眼下に広がる京の景色を眺めると、不意に花梨はぶるりと震えた。この京に生きて暮らしている人々の平安が自分の働きにかかっているということの重みが怖くなったのだ。そんな花梨の背後から近づいた翡翠は、そっと両手で花梨の目を塞いだ。
「考えても仕方のないことは考えるのは辞めたまえ。
 第一、京が滅びる責任を君が背負う必要もなし」
くるり、と花梨は翡翠の方へと向き直り、彼を見上げた。
「翡翠さんは、京がどうなってもいいんですか?」
驚きと少しばかりの非難の入り混じった声に対して、翡翠は軽く笑い声をあげた。
「私には関係ないねえ。京が滅びるというのならそれは京の者の責任であって
 私のせいではない。もちろん、花梨のせいでもない」
「……じゃあ、どうして翡翠さんは私を助けてくれるの? 八葉の仕事をしてくれるの?」
おやおや、と言いたげに翡翠は花梨の顔を見つめた。そんなことを今まで知らなかったのか、と言いたげな顔だ。
「私にとっては花梨が龍神の神子だろうと、そうでなかろうとどうでもいいことだよ。
 自分が八葉であることも同じくらいにどうでもいい。
 私にとっては花梨、君自身が意味のある存在なのだよ。
 君が龍神の神子で私が八葉だから、君を気にかけているのではないよ」
その言葉に花梨は、ああ、そうか、と得心した。何故、自分が翡翠の前では安心できて、ありのままの自分でいられるのか。何故、彼の前では気持ちに正直になれるのか。
「ありがとうございます、翡翠さん!
 すごく、嬉しいです。……龍神の神子って皆に認めてもらえるのも嬉しかったけど
 でも、そんなこと関係ないって言ってもらえるのは、もっと嬉しい」
花梨は心からそう言って翡翠に向かって笑いかけた。自分のこの胸に広がった嬉しい気持ちが彼に伝わればいいと精一杯思いながら。しかし、翡翠はというと、いささか拍子抜けしたような面持ちで花梨の頬に手を伸ばした。
「……姫君、それだけかい? 私は自分の気持ちを伝えたかったのだけれど。
 君には通じていないのかな?」
はい? 十分伝わりましたよ、と花梨が言おうと顔を上げたときには、翡翠の整った顔が花梨の顔に影を落としていた。

………………!!
「な、ななななな、な、なにするっ……な、なにしたんですかーっ!! 翡翠さんっ!!」
手の甲で唇をぐいぐいと擦って花梨は翡翠から飛び離れた。顔が真っ赤に染まっている。その表情を翡翠は面白げに眺めて、事も無げに答える。
「姫君に口付けを」
「なっ、なななな、ひどっ! はっ、初めてだったんですよっ! それなのにっ!
 わ、私だって、こう見えてもいろいろ夢見てっ、はっ、初めてのキスは公園の木の下で、とかっ
 お互いにちょっと照れながら、とか、とにかく、いい雰囲気で自然にお互い引き寄せられるようにとかっ
 なのになのになのに、なんかイカサマみたいに勝手に何時の間にかってひどっ! ひどーい!!」
赤い顔でそう言い募る花梨の剣幕に、翡翠はどうやら花梨が怒っているらしいということは理解した翡翠は飛び離れた花梨に向かって歩を進めた。じりじりと警戒して後ずさる花梨の手首をすばやく握って引き寄せる。
涙目の花梨が睨むように見上げると、翡翠もいささかむっとしたような表情で花梨を見下ろした。
「……つまり、いきなり口付けたことに怒っているのかい、花梨は」
「お、怒らない方がおかしくないですかっ!」
ちゃんと私にだって夢見ていたファーストキスのシチュエーションってものがあったのに、と翡翠には理解不能な言葉を交えて怒る花梨に、翡翠は少し考えると更に問いかけた。
「では、私が相手だということには異存はないわけだね?」
「はい?」
しゃあしゃあと言われて、思わず花梨が問い返す。それから翡翠の言った意味を吟味して花梨の顔が尚更に赤くなった。
「どうなんだい? 花梨?」
それが重要だというように翡翠がなおも言い募る。しばらく視線を泳がせていた花梨はそれから随分と悔しそうな顔になって、大きく頷いた。いきなりの行為に驚き怒りはしたけれど、口付けられたことそのものが嫌だとは少しも思っていないことに自分で気付いたからだった。むしろ、なんだか相手が翡翠だということは当然のことのようにさえ思っていて。どうせならなんでもっといい雰囲気でしてくれないのかと、そんなことに怒っていることに気付いてしまったのだ。
翡翠はその花梨の答えに満足げに笑った。それがまた花梨には少々悔しい。
「わかったよ、花梨。君の初めての口付けをやり直したいとお望みかな?」
「……もちろんです」
多少拗ねたような声で花梨が返す。
「では、君に対する気遣いが足りなかったことを詫びて、お望みのように遣り直そう。
 変わりに君のその望むさまを言ってくれまいか?」
そう言われると、口で説明しろと言われても何か違うような気がして花梨は顔を顰める。
どんなのが良かったのかと言われると、なにやら困る。それでも面白そうな顔で自分を覗き込んでいる翡翠に悔しくなって花梨は、半ばヤケクソな気分で言った。
「とにかく! 公園……ええと、緑の木々に囲まれたような場所で」
「ああ、ここでぴったりだね」
「木陰で寄り添いあって」
「うん、ではこの木あたりが手ごろだろうね」
「お互いにこう、何かの拍子に顔を近く見合わせて」
「こんな風に?」
額を寄せるように間近く翡翠が微笑みながら花梨の顔を除きこんでくる。
「な、なんていうか、し、自然に引き寄せられるみた、みたいにっ……」
「私はいつだって君に引き寄せられているんだがね。
 花梨、君は? 君はこんな風に顔寄せ合って、私にどうして欲しいと思うの?」
じっと花梨は翡翠の目を見つめた。自然に引き寄せられるように。そう自分で言ったけれど、翡翠の深い瞳の色を見つめていると、本当に彼に引き寄せられるような気がした。
「…………ね? 花梨?」
低く翡翠に囁かれて、花梨は掠れそうな声で小さく答えた。
「翡翠さんに……口付けて、欲しい……」

…………………!

満足げな表情をして、花梨に寄せていた唇をそっと離した翡翠に対して、花梨はなにやら納得しかねる表情で考え込んでいた。
「…………なんか、おかしい気がするんですけど、おかしくないですかね?
 なんか、私、言いくるめられてません?」
眉間に皺をよせてそう言う花梨に、おや、と翡翠は心外そうに首を傾げる。
「まだ納得できないのかい? 君のお望みではなかった?
 仕方のない姫君だね、でも君が満足するまで、何度でも私は遣り直してもいいよ?」
怪しい雲行きを感じて逃げようとした花梨を腕の中におさめて、翡翠は随分と楽しそうにそう言ったのだった。

「だから、そうじゃなくてー!」
花梨のファーストキスが一体何度遣り直されたのかは、本人のみが知っている。




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