あなたの言葉をください。 翡翠×花梨編
今日こそは、翡翠に負けない、と決意して花梨はぎゅっと拳を握りしめた。

毎回毎回、ちょっと油断するといつの間にか耳元で良い声が囁いていたり、どうにも身動きしづらいようにすっぽり腕の中に収められていたり、帰り際にはあっさり唇を攫っていかれたり。
これはいけない、と思っているのだ。だいたい、順序が間違っているではないか。遠慮無く触れてくるくせに、何かそれらしいことを言われた覚えすらない。とにかく、今日は負けないぞ、と唇を噛みしめていると背後から声がした。
「おやおや、今日はいったい百面相だね」
花梨は驚いてがばっと背後を振り返る。そこには足音もなく忍び寄っていた翡翠が涼しげな顔で立っていた。
「ひ、ひひ、翡翠さん! いつからそこにいたんですか」
「何時からって……気付いていなかったのかい? それは残念」
何が残念なのだか、絶対、気付かれないようにそっと忍び寄っていたに違いないのに、と花梨はむっと上目遣いで彼を睨み付ける。しかし、そんな顔をしてみたところで翡翠には全く痛くも痒くもないのは一目瞭然だった。彼はさりげなく花梨の間近に腰を降ろすと、流れるような動作でその腰に腕を廻し引き寄せようとする。うっかりそのまま彼の胸に倒れ込みそうになって花梨は慌てて両手をつっぱった。
「だめだめだめー! 駄目です!」
思いもよらぬ反抗に、翡翠は少し目を瞠り、それから面白そうに微笑んだ。
「おや、今日は随分とつれないんだね」
「つれないんじゃないです! これが普通!」
翡翠から少し距離を置いて座り直した花梨が、びしっと人差し指を立てて言い放つ。そう言いながらも紅潮した頬をしている様子を、やはり面白そうに翡翠は眺めていた。
「だ、だいたい、翡翠さんってばいつもいつもくっつきすぎっていうか、なんていうか」
「おや、でも、そういう私を呼んでくれるのは花梨ではないの?」
まったく余裕の表情でさらりと長い髪を掻き上げながら翡翠がそう言うと花梨はぐっと黙り込んだ。
「物忌みの度に私を呼んでくれるのは花梨だと思ったけれど。
 それとも私が傍にいるのは嫌なのかな?」
じりじりと再びまた翡翠が花梨に近寄ってくる。それを身体を逸らして避けながらも花梨はどう答えたものか迷っていた。確かに、物忌みの度に翡翠を呼び出しているのは自分だ。翡翠を嫌なわけでもない。その時点で実はもうとっくに彼に負けているような気さえしてくる。
「い、嫌じゃないですけど、でも、今日は駄目、です」
なんとかそう言うとじっと翡翠を見つめる。何か言われるかと思いきや、翡翠は何も言わずに
「おや、そう」
とだけ言うとその場を立ち上がった。
「えっ、翡翠さん、あのっ」
彼が帰ってしまうのだろうかと思い慌てた花梨が手をつくと、翡翠は可笑しげに笑って花梨を見下ろした。
「大丈夫、帰ったりしないよ。でも、私が近くにいるのは今日は駄目なのだろう?」
そう言うと花梨から離れた場所に座り直した。いざ、そうされると今度は花梨も落ち着かない。話をするには少し遠いような微妙な距離を翡翠は取っていて、花梨からは声を掛けづらかった。翡翠はといえば全く気にもしていない様子で庭を見遣っている。その何ら気にしていない様子が悔しくて、花梨も翡翠から目を逸らすと文机に向かった。暇つぶしに紫姫が貸してくれた絵巻物を繰ってみるが(文字の読めない花梨でも絵なら楽しめるだろうと言ってくれたのだ)それでも実際は背後の翡翠が気になってしかたがなかった。そのうち、何も話さないのが苦痛になってきて、そっと背後を伺ってみると翡翠は横になって肘をつき、頭を手で支えたまま寝ているように見えた。
「……翡翠さん」
そっと呼びかけてみるが返事がない。それで花梨はそっと立ち上がると足音を立てないように翡翠に近づく。背を向けている翡翠の背後にしゃがみ、そっと上から覗き込むようにその顔を伺った。切れ長の瞳が閉じられ、端正な顔に似合わぬ皮肉な笑みを常に浮かべているその表情が妙に優しげに見えた。長い髪がさらさらと流れ床に落ちている。その髪をひと掬い手に取って花梨は溜息をついた。触れられるのが嫌なわけではない。むしろ嬉しい。でも、不安でもある。それが子どもっぽいと思われるのも嫌だけれど、今のままなしくずしもやっぱり嫌だ。
「……溜息とはいったい、姫君はどうして欲しいのかな、私に」
閉じられていた瞳が開けられ、慌てて逃げようとする花梨の手を翡翠が起きあがると同時に掴んだ。逃げようとするのも間に合わず、「あっ!」と声をあげるとともに花梨は今度こそ翡翠の腕の中に閉じこめられてしまう。
「や、やだやだ! 狡い! いつから起きてたんですか! 翡翠さん!!」
暴れる花梨を押さえて、翡翠が窘めるように言う。
「例え眠っていても気配には聡いものだよ、海賊などしていればね。
 近寄るなと言ってのけながら、眠っている間に傍にきて触れるのは狡くないのかい?」
「だって、だって……」
「ねえ、花梨、いったい、私に傍にいて欲しいの? それともいて欲しくないの?
 私に触れて欲しいの? それとも触れられるのが嫌なの、どっちなんだい」
先ほどは容易に離してくれたくせに、今度はどんなに花梨が暴れても離してくれないどころか、もっと強く抱きしめてくる。それでも、もしかしたら本気で嫌がれば翡翠はその腕を解いてくれるかもしれないが、それも花梨には怖かった。翡翠はきっと、どこかで「ここまで」と思ったらその後振り返ることはしないだろうと思ったから。結局のところ、自分は翡翠に勝てるはずもないのだと悔しくて哀しくてそれでも泣いたりはするもんかと、花梨はきっと翡翠を見上げた。そして、そこにある翡翠の顔が思っていたよりも真面目で、むしろ怖いほどに花梨を見つめているのに気付いて口ごもる。それでも翡翠は花梨を促した。
「ねえ、花梨。私に触れられるのは、嫌なのかい?」
「…………い、イヤじゃ、ないよ…………」
言ってしまってから無性に花梨は腹が立ってきた。イヤじゃない、イヤならとっくに呼び出すのなんか辞めている。だいたい、いろいろ尋ねたいのはこっちの方なのに。どういうつもりなのか訊きたいのは花梨の方だ。だから両手の拳を握って翡翠の胸を強く叩くとそれで勢いをつけたように大きく息を吸い込んでぶちまけた。
「イヤじゃないけど! でも! 今みたいになしくずしにされるのはイヤだよ。
 じゃあ、なんで翡翠さんは私にこんな風にちょっかい出すの? 面白いから? からかうため?
 何も言ってくれないのに、先に進まれてもどうしていいのかわかんないよ。
 ちゃんと、順序を追って進んでくれなきゃわかんない。
 私は翡翠さんが好きだけど、でも、翡翠さんが遊びだっていうなら、やっぱり触れられるのはイヤだ」
これでどうにかなってしまうなら、なってしまえとばかりに言い切ると、花梨はぐっと翡翠を見つめた。遊びならきっと、後腐れのないものを好むだろうから、イヤだと言えばそこで終わりになるだろうと思う。しかし、翡翠は少しも手を緩めようとはしなかった。それどころか、少し嬉しげに口の端で笑っているようにさえ見えた。
「確かに、花梨といると退屈しないし面白い。
 けれど、退屈しのぎのために君を傷つけるような遊びをする男ではないと
 私のことを思ってもらいたいものだね」
それはつまり、遊びではないということだろうかと考えるが、花梨は膨れっ面で言い募った。
「翡翠さんの言うことは回りくどくて良くわからないですよ。
 はっきり言ってくれないと、私にはわかりませんってば。
 そういうの、面倒くさいと思ってるかもしれませんけど」
すっと翡翠の顔が花梨の間近に迫ってくる。そっと花梨の耳元で翡翠が囁いた。
「そうだね、他の姫君ならそういう手順も面倒くさいと思うかもしれないね。
 でも、それを花梨が望むなら、少しも面倒だと思えないんだよ。自分でも不思議だけれどね」
背中に甘い痺れが来るような囁きを我慢して花梨が翡翠の頬を両手で包んで言う。
「じゃあ、言ってください。翡翠さん、私のこと、どう思ってるんですか」
絶対に諦めない花梨に翡翠はそれでも笑いながら答えた。
「私の全てを君に捧げても構わないほどに君を思っているよ。
 そしてその代わりに君の全てを私のものにしたいほどに君に焦がれている。
 ねえ、これで満足かい? 花梨?」
いざそう言われると途端に顔が熱くなってくる花梨は、答えを返すこともできずにただ、何度も頷いた。嬉しいとかいうよりも、どこか何か現実味がないようなふわふわした気分になってしまう。しかし、そんな花梨にお構いなしに翡翠の瞳がきらりと瞬いた。
「ねえ、花梨。私にそこまで言わせたのだから、君も覚悟はできているのだね?」
何の、と花梨が尋ねるよりも早く、花梨の唇を翡翠が奪う。それまでの帰り際に冗談のように軽く触れてきたものとは違い、強く深く重ねられて花梨は驚いて目を閉じることすら忘れた。
むーむーと喚いてみるが翡翠は全く気にもとめないようで、それどころか花梨を抱きしめていた手がさわさわとその身体のラインをなぞり始める。
「だ、だめー!!!」
本日二度めの叫びをあげて、花梨は息も絶え絶えになって翡翠の腕の中で彼の胸に手をつきつっぱって身体を離そうとした。
「どうして? 私の気持ちは君に伝えたし、君の気持ちも私に言ってくれたろう?」
「それはっ、また、別! こっ、この先もちゃんと、順序よく、段階踏んでくれないとっ
 き、急には、無理!」
それこそ頭のてっぺんから指の先まで真っ赤になってそう言う花梨に、今度こそ翡翠は声をあげて笑い出した。
「ひ、翡翠さんは慣れてて、そーゆー手順、めんどくさいかもしれませんけど!
 で、でも、私のことは面倒だって、思わないんでしょ?!」
それでも最後は確信を持ってそういう花梨に、翡翠はその手をとって口づけた。
「そうだね、花梨。では順序を追って私が教えてあげるよ、可愛いひと」




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