「翡翠さん、いらっしゃい!」
いつものように案内も乞わずに現れた翡翠に向かって、花梨は驚く素振りも見せずにそう言った。
とはいえ、今日は花梨が翡翠に来て欲しいと文を出したのだから彼が現れるのはわかっていたから、驚く謂われもないということなのだが。
異世界・京へたった一人で放り出された花梨は、元居た世界と全く異なるこの京での暮らしにもかなり慣れたとはいうものの、唯一自分でなんともならないのが『物忌みの日』というものだった。
自分自身、『穢れ』の強い土地を訪れた際には、物忌みの日でなくとも気分が悪くなったりしたので、その日は少しの穢れであっても自分には良くないものなのだ、と言われると納得もしたのだが、不便だと思うし退屈でもある。
八葉という人達が傍に居てくれると穢れの影響も受けにくいというので、誰か一人を呼び出したりもするのだが、それも申し訳ない気もしたりする。それで、当初は特に仕事がなさげで暇げに思えた翡翠に頼んだりしていたのだが……それがすっかり馴染んでしまうと、他の誰かを呼び出す気にならなくなってしまった。
そして今日も、その物忌みの日で、翡翠が屋敷に来てくれたということなのだ。
「姫君のお呼びとあらば馳せ参じようとも」
軽くそう言って部屋に入ってきた翡翠だったが、その様子は常とは異なり些か疲れを滲ませていた。花梨はそんな翡翠を訝しげに見上げ、そういえば、と以前翡翠が親王の配下に襲われて怪我をして現れたことを思い出し、途端に心配げに顔を曇らせた。
翡翠はそんな花梨の表情の変化に気付いて彼女の傍らに腰を降ろすとその頬に手を滑らせる。
「どうしたのだい? 花の顔が台無しだよ、そのように眉間に縦皺を刻んでいては」
面白げにそう語りかけて顔を近づけてくるが、いつものように余裕ある言葉と態度とは裏腹に、その瞳に些かの疲れがありありと見えて、花梨は翡翠の頬を両手で包んだ。
「また、何かあったんですか?」
勢い、強くなる口調に翡翠が目を瞬かせる。怒ったような顔の花梨は至極真剣だ。面白げにその顔を見下ろして翡翠はとぼけたような言葉を返した。
「何かって、何だい?」
「だーかーらー、また、なにか揉め事とか、ありました?」
「……君はいったい、私をどんな男だと思っているんだい」
「…………お尋ね者の海賊?」
やや脱力したような翡翠に向かって、花梨は何故か疑問口調で答える。実際、海賊だとは聴いているが、そうした行為を行っているところは目にしたことはないし、自分が思い描いてきた『海賊』というものとは、この世界の海賊は少し違うようだともわかって、本当のところ花梨は翡翠が何を生業としていると考えて良いものか判りかねていたのだ。
「……だって、翡翠さん、なんだか疲れてるみたいだし。また、何かあったのかなって。
疲れてるのに、私に付き合わせちゃって、なんだか申し訳ないなーって」
唇を尖らせてそう言う花梨に、翡翠は苦笑した。申し訳ないと言いながら、何処か拗ねたような表情なのが可笑しい。
まったく、この少女は見るに飽きない。だからこそ、自由を旨とする翡翠が、自分の都合を無理をつけても、こうして会いにくるのだ。
「君が思うようないざこざはなかったよ、残念ながら。
私はこう見えても無駄に争い事は起こさない性質なんだよ。
姫君のお召しに参上するために、仕事を片づけてきたとは考えてくれないのかい?」
「えー!? 翡翠さん、お仕事あったんですか?」
「……私とて、京で毎日遊び歩いている訳ではないのだよ。
時々は部下がやってきて、あれこれ煩くせっつくものでね」
花梨の反応は翡翠の期待を常に軽く裏切っていて、それにどう返せばいいのか迷う。その期待と裏切りが面白く、飽きることがないのだが。
「ごめんなさい! 翡翠さんがヒマだと思ってたわけじゃないけど……なんか今までも無理させてました?
お仕事があるんだったら、あの、今日だって別に……」
「急にしおらしくなるものじゃないよ。第一、今日は姫君の傍に控えているのが仕事なんだからね。
それよりも、ここへ来るために無理をした私に、何か褒美でもないのかな?」
にっこり笑ってそう言ってみせれば、花梨がきょとんとした顔で翡翠を見返す。それから何かいいことを考えついたとでも言うように笑うと、座った自分の膝をぽん、と叩いてみせた。
「じゃ、お疲れの翡翠さんに、膝貸します! 寝ていいですよ」
思いも寄らなかったその提案に、翡翠は一瞬驚きの表情を隠せなかった。そして花梨の顔と、彼女が指し示す柔らかそうな、常はカモシカのように跳ねるその足を交互に見る。
「? ホラ、穢れから護ってもらうのって、傍に居て貰ったらそれでいいってことだから。
翡翠さん、寝ちゃってても問題ないんじゃないかな? だから。はい、寝ていいですよ?」
そういう問題なのだろうか、この姫君には全く意表を突かれる、と内心思いながらも、彼女が提供しようと言う温もりには抗いがたい魅力を感じもした。第一、その申し出を断る謂われもない。
翡翠がその頭を預けると、少しだけくすぐったげに花梨が震えた。触れた部分から伝わる温もりが翡翠にも妙に心地よく感じられる。悪戯心を起こして少しばかり不埒な動きを手がしてみせれば、途端にぺしっとその手をはたかれる。
「もうっ! 眠ってください! そのためなんですから」
おや、残念、と笑いながら小さく呟いた翡翠は、それでは、と身体の向きを変え、花梨の方へ向き直る。そしてその腰に腕を絡ませた。
「ち、ちちち、ちょっと、翡翠さん!」
慌てたような声が頭上から振ってくるが、膝の上から突き落とされることはなかった。首まで真っ赤になっているであろう花梨を想像しつつも、翡翠は目を開けることはしなかった。腕の中にやんわりと抱きしめた温もりに、頬に触れる温もりに、それだけで十分満足な気分になったからだ。
目を閉じた翡翠に、眠り込んだものと思ったのかどうか、おずおずと花梨の手が翡翠の髪を撫でる。それは優しい動きで翡翠を本当の眠りに誘った。
触れあう部分から伝わってくるお互いの温もり。いつかはお互いを隔てる邪魔な布を取り去って、素肌でそれを感じたいものだね、と翡翠は心の内で呟いた。
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