あのときからずっと、夜、熟睡したことはない。
浅い眠りはいつも息苦しくて、夜明けまでに何度も何度も目を覚ます。毎夜の眠りは、小さな死だ。そのまま目を覚ますことなく、朝が訪れなかったらどうなるのだろうと。夜の闇が自分を飲み込んでしまったらどうしようと。また、あのときの悪夢を見たらどうしようと。眠ることが景時には恐ろしかった。
うなされる自分の声に、はっと景時は目を覚ました。嫌な汗がじっとりと身体に滲む。褥に起き上がり、両手で顔を覆った。
死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない……
夢の中で自分はずっとずっとそう繰り返している。紅い川が景時の足元を流れていく。
死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない……
死肉を喰らう裂けた口が、景時を見て嘲笑う。命乞いをする景時を嘲笑う。
いつもの夢、いつもの悪夢。その光景を忘れない限り、きっと自分には安らかな眠りなど訪れないだろう。だが、自分にはそんな安らぎも得られない人生が似合いなのだろうと景時は思う。
夜明けがまだ遠い暗闇の中、じっと自分の手を見つめる。闇に慣れた目に、ぼんやりと自分の手が浮かび上がって見えた。ただの何の変哲もない手。
だが景時には自分の手は赤黒い血に塗れ穢れたものに見えた。穢れているのは手だけではない、自分自身の存在そのものが、きっと穢れている。
あの時、自分の足元に流れていたあの紅い川。あれは、もしかして自分の血ではなかっただろうか? 今の自分は死肉で出来た傀儡ではないのだろうか。
だが、そう考えて苦笑する。そうだったらどれほど楽だっただろう。そう思えればどんなに楽だろう。
だが、死肉でできた傀儡と今の自分と、どれほどに違いがあるだろう。
もう眠れそうもないと思った景時は、静かに部屋の戸を開けて外に出た。
月の明かりが庭を照らしていた。しんと静まり返った世界は、まるで景時独りが存在しているかのようだ。だが、こうした夜に孤独であることも、もう慣れてしまったことだった。誰もいない孤独な夜、それもまた自分には似合いの世界だ。いったい、自分の傍らに寄り添ってくれる誰かが、この先現れることなどあるだろうか。
そんな人が自分に現れてくれたとして、と考えて景時は虚しく笑う。
いつか、その人さえも手にかけないと自分に言い切れるだろうか。いつか、自分はそんな人さえも殺してしまうのではないだろうか。心弱く卑怯な自分は。
生きる価値さえない卑怯者だと思うのに、死にたくない、死にたくないと夢の中で自分が繰り返す。そんな自分を思い出して更に嫌悪感を募らせる。
死にたくない、死ねばいい、死にたくない、死ぬべきだ、死にたくない、死ななくてはならない、死にたくない
いつもいつも、相反する考えが景時を支配する。自分は死ぬべきだと思うのに、本当の心は死にたくないという。
「景時、さん?」
柔らかい声が、庭に向かって縁に座り空を見上げる景時に向かってかけられる。びくりと震えて、景時はその声のする方を振り向いた。夜着の単を纏っただけの望美が心配げな顔をして立っていた。
「……望美ちゃん……」
どうしたの、とも、いつもの軽妙な会話で今のこの場を誤魔化すことも景時にはできなかった。自分が今、随分と情けない顔をしているであろうとも気付いていた。
なのに、何も言えなかった。
しかし、望美は躊躇うそぶりも見せずに、静かに景時の傍へ歩み寄ると、景時の隣にまるで当たり前のように腰を下ろす。
そして、少し身体を伸ばして手を出すと、景時の降りた前髪をそっとかきあげた。隠していたものがそれで露になったかのように、じっと景時の瞳を望美は見つめる。
「……なんだかね、呼ばれたみたいな気がしたの。それで、目が覚めて……
助けて、って……寂しいって……私を呼んでいるような気が、したの」
誰が、とは望美は言わなかった。けれど、その瞳は何よりも雄弁で。景時はその瞳を見返すことができずに自身の目を伏せた。
「それは、そんなのは……」
夢だよ、気のせいだ、と景時は言おうとしてその言葉を唇に乗せることができなかった。
きっと、それは夜のせい。多分、今のこれだってきっと夢なのだ。
望美はにこり、と微笑むと景時の前髪をあげていた手でぽんぽん、と二回ほど景時の頭を優しく叩いた。
それはまるで、大丈夫だよ、と言っているかのようだった。
はっとして景時が顔を上げると、やはり望美は優しく微笑んでいて。
「……望美、ちゃん」
ごめん、と景時は小さく呟くと望美の肩に顔を埋めた。その背中を柔らかく望美は抱きしめ、優しく擦る。
その温もりが景時にまるで赦しを与えてくれるかのようだった。生きていていい、という赦し。死にたくないと思う自分に、生きる価値などないと思う自分に、生きていいと赦しを与えてくれるかのようだった。
「景時さん、大丈夫だよ。……私が傍にいるから、大丈夫……」
そう言ってくれる望美を、それでも自身の腕で抱きしめる勇気はなかったけれど、その細い肩に顔を埋めたまま景時はもう一度「ごめん」と呟いた。
自分の傍らにいてくれるという柔らかな温もりを、心の底から欲しいと思う。けれど血塗られた手が、心の内にある不安が、それを抱きしめることを躊躇わせる。
いつもいつも、相反する思いが景時を支配する。
それでも、今は夜のせいにして、これはきっと夢なのだと思わせて、望美のくれる温もりに浸っていた。
ただその温もりだけが、景時にとっての赦しの標であるかのように。
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