あなたの笑顔をください。 翡翠×花梨編
 週末の土曜、花梨が翡翠のマンションを訪問するのはもう習慣のようなものになっていた。前もって電話することもなく、翡翠が不在であっても合い鍵で中に入って適当に過ごす。こちらの世界にやってきた翡翠は持ち前の才覚で事業を起こし、それなりに忙しい毎日を送っている。土曜であっても、時に仕事で家には不在、帰ってくるのは夜、ということもある。それでも花梨が来ることはわかっているので夕食は共に、そして休日は必ず一緒に過ごす、それが当たり前のようになっていた。
 その日も花梨は、適当に買い物を済ませて翡翠宅を訪れていた。部屋の主は不在である。センスの良い調度品は翡翠の趣味だが、そこに時折混ざる花梨の趣味が部屋の印象を和らげていた。例えば、モノクロームのソファとガラステーブルの居間に置かれた、ピンクのクッションとか。異彩を放っているとも取れるが、花梨は結構、そのアンバランスさが好きだったし、翡翠も何も言わない。意外に無頓着なのだと知ったのは、こちらに来てからのことだ。そして、意外にワーカーホリックの気があるということも、こちらに来て初めて気付いた。もっとも、それはこちらに来た翡翠が、全てを一から築かなくてはならなかったこととも関係しているようだ。花梨が京へと飛ばされた時も、一人ぼっちで何も持っていなかった。しかし、紫姫が居てくれたために挫けずになんとかやっていくことができた。龍神の神子という自分の為すべきこともわかっていた。しかし、翡翠はこちらの世界に一人でやってきて、花梨は彼のために手助けできることといえば……特にこれといって何もなく。まさしく翡翠は自分の力でこの世界で自分の居場所を築いていたのだった。彼は『あちらでだって似たようなものだったよ』と軽く笑って言っていたし、案外に楽しそうではあるが、花梨の知らないところで知らない苦労をしているのではないかなあ、と想像だけはしているのだ。
『龍神さまも、もうちょっとアフターサービスしてくれてもいいのにね』
そんな風に言ったことがある。住まいやこちらの世界での知識は授けてもらったものの、地位や友人というものはなかったからだ。しかし、翡翠はそれを聞くと
『何もかもが龍神のお膳立てというのは気にくわないねえ』
と言ったのだった。用意されたものを受け取るだけでは満足できない、それが翡翠らしくて花梨はつい笑ってしまったのだけれど。今となってはその心配も無用だったように、翡翠は十分な収入を自らの事業で得ていたし、ビジネス上の付き合いも、知り合いも出来ているようだし、ある程度信頼できる部下というものもいるようだ。
 冷蔵庫を開けて買ってきたものを仕舞う。簡単に食べられるものを買ってきたのだが、冷蔵庫の中はいつも割と充実している。器用なのは良く知っていたが、台所でも器用なのだというのも意外な事実だった。
(何でも出来るっていうのも、反則だよねえ)
翡翠曰く、『面倒なものは作らないから上手だとは言わない』らしいが、以前、魚を刺身に捌いていたのは驚いたものだ。確かに、栄養だのなんだのを考えたメニューは全く作らないし、面倒くさいというのは本当らしく、気が向いたときにしか作らないようではあるが。いずれにしても、まだまだ翡翠に関しては意外なことが多くて、花梨はいつも驚かされっぱなしなのだ。多分、京に留まったとしても同じだったかもしれないが、こちらの世界に来たからこそ知ることができた翡翠の一面もあるだろう。
「よしっと。夕食はなんとかなるよね」
 何でも器用にこなされては花梨としては沽券に関わる部分もあり、自分がここを訪れた時には夕食作りの主導権は自分にある、と主張していたりする。翡翠とは違った意味で手間のかかるものは作れない、のは愛嬌ということで、そしてまた意外なことにこれまた翡翠は案外無頓着だったりもする。というよりも、こちらの世界の食べ物は、何をもってしても翡翠には珍しく、味にも幅があり美味なものらしい。花梨が調味料の発達に感謝したのは言うまでもない。
 買ってきたものを所定の位置に片づけてしまえば、後は翡翠が帰ってくるまでは花梨の自由時間だ。とりあえずまだ学生である間はやるべきことは他にもあるわけで、花梨は恋人のマンションに来る時には普通あまり持ってくることは少ないであろう教科書や参考書やノートの類を取り出して学生の本分に励んだ。これは自分なりにも考えたことであり、翡翠との付き合いによって学業が疎かになったとなれば両親からはもちろん付き合いは反対されるだろうし翡翠を悪く言われることもあるだろう。そんなことにはしたくはないし、また、翡翠も花梨がこうした教材を持ってきて勉強することに反対どころか興味を持っていた。知識として知っているが実際に目で見るのはまた違うらしく、教科書、とか、参考書、というものがその中に書いてあることも含めて非常に興味深く面白いらしい。もっとも、問題集の問題をさらっと解いてみせた翡翠に、『なんでそんなことわかるんですか』と尋ねてみると『さあ? 知識として持ち合わせているようだよ? 龍神が与えてくれたようだね』と言われ、何やら理不尽な気持ちにもなったことがあるのだが。考えるに、何から何まで持ち合わせていて翡翠は欠けたるものが何もないような気さえしてくるのだが、花梨はそれ以上に彼が失ったもののことも知っているので彼がこちらの世界で『みちた』状態なのかどうかは測ることができずにいた。彼が京へ置いてきたものと、こちらで得たものは比べることができるものかどうかと考えてしまうのだ。
(……そういうことは考えるの止そうよ、私)
ついしかめっ面になりそうな自分を押しとどめて、花梨はぶんぶんと頭を振った。自分が京という世界へ飛ばされたとき、様々なことがあったけれど、あの世界に居ることを悔やんだことも後悔したこともなかった。それは紫姫を始め翡翠も、そして信頼されるのに時間はかかったけれど他の八葉も自分を支えてくれたからだ。だから、翡翠にとってもこちらの世界での暮らしがそうであるように、自分にできることをするだけだ、と思い直す。そんなことを考えていると翡翠が知ったら、自身の決断を後悔する日がくるかもなどと随分と見くびられたものだ、と言いかねないけれど、花梨の正直な気持ちとしてはそうなのだった。
 真面目に学業に勤しんだ後、時計と相談して風呂を沸かしたり夕食の準備をしたり。特に連絡が入ってこないということは、およそいつもと変わらぬ時間に翡翠は帰宅するということだろう。こんな風に暗黙の了解のような事柄が二人の間にあるということが、なんとなく可笑しかったり嬉しかったり。こういう積み重ねがやがて二人の間に増えていくと良いなと思う。もちろん、口に出して言わなくてはならないことや、言って欲しいこともあるけれど。
(そうそう、仕事の事とかって翡翠さんは、何も言ってくれないしね)
もちろん、仕事の話を花梨が聞いたところで理解できるとは思っていない。それに、立ち入らない方がいい部分もあるのだろうとも思う。しかし
(たまに、翡翠さん、難しい顔してるときもあったりするし)
そういうときは、少しばかり心配になってしまうのだ。優しい言葉は嬉しいし、相変わらず今でも(そしておそらくこれからもずっと)どきどきするし、うっとりもする。けれど時には彼の心の中のマイナスな部分も見せて欲しいと思ってしまうのだ。それは我が儘なのかもしれないし、あるいは、自分が彼の支えになっていると納得するための自己満足なのかもしれない。でも
(好きな人のことはいろいろ知りたいって思うじゃない?)
良いことも、悪いことも、同じように知りたいと思うのだ。そして
(悪いことがあったらちょっとでも力になりたいし、翡翠さんには翡翠さんで居て欲しいんだ)
今のところ、どんな世界にやってきたところで翡翠は翡翠なのだと思わされるばかりで、花梨は感心するばかりなのだが、翡翠に言わせるとそれは花梨も同じことらしい。『翡翠さんって……やっぱり翡翠さんですねえ』などと妙な感心の仕方をしたときに『花梨だって京でも自分らしく振る舞っていたと思わないかい? こちらで見る君も京での君も同じく花梨だと私は思うがね?』と返された。どこであっても自分らしくあること、それは大切なことだ。
(でもね、京で私が自分らしく居られたのは、やっぱり紫姫や翡翠さんや八葉の皆のおかげだとも思うんだ)
だから翡翠が翡翠らしくあるように、というようなことも考えてしまうのだろう。もちろん、もっとただ単純に
(翡翠さんの笑った顔を見ていたいから)
という理由だってある。誰だって、好きな相手が辛い顔をしているよりも笑顔でいてくれた方がずっといい。花梨だって落ち込んだ時には随分と翡翠に心を軽くしてもらった。
(ああいう心配りは私ってまだまだだとは思うんだよね。やっぱり翡翠さんって大人だなって思ったし)
でも好きだから。笑顔が欲しいから。いつだって自分の精一杯で彼を受け止めたいし、受け止めて欲しい。

 後は翡翠が帰ってきたら夕食の最後の仕上げをすればできあがり、というところまで来て花梨は再び居間のソファに戻った。時計を見上げて、翡翠が帰ってくるであろう時間の確認をする。それから、自分のカバンの中を探って小さな手帳を取り出した。これは、何時も持っているけれど翡翠には見せたことのない手帳だ。ページをめくると花梨の文字でメモが記されている。日付いりのそれは、こちらに来てから翡翠と会った日の出来事だ。他愛のないことばかりだが、花梨にとっては大切なことばかりだ。難しい顔をしていた翡翠を笑わせようと、無理やりにらめっこを始めてみたり。逆に、落ち込んだ気分の花梨のために、翡翠がその日ばかりはと急に腕を振るってくれたり。それがとてもさりげなかったから後から気付いたことや、花梨が翡翠を笑わせようとしたことなどとっくにお見通しだったことや。それを見直していると、全部が思い出されて恥ずかしくなったり、嬉しくなったり。そして、これから過ごす時間がとても大切なものに思えてくるのだ。この手帳がいっぱいになって、そして新しい手帳になって、そしてまたそれも終わって。そんな風に時間が重なっていけばいい。その分深く翡翠のことを知ることができるように。こうやって彼を待つ間にこの手帳を見返すのは、元気をもらうため、そしてとびきりの自分で彼に会うため。
(よしっ! 今日も元気に、出来れば可愛く! 翡翠さんをお迎えしちゃうぞ、っと)
飛び切りの笑顔で彼を迎えて。それはもちろん、彼に自分のできる全てをあげたいと思うから。そして、彼がそんな自分を見て微笑んでくれたら、何より幸せ。

――いつだって欲しいのは、彼の笑顔だから。




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