泣けない泣かない、泣きたくない
石を飲み込んだように、胸の奥が、腹の底がずっとずっと重くて仕方がない。
景時は一人になるとそうするのが癖になってしまった深く重い溜息を吐いた。それから、誰も見ていないかと少し慌てて辺りを見回した。他人の痛みに敏感な少女が不意に現れて『どうしたんですか? 景時さん』と声をかけてきて、慌てたことは一回や二回ではない。そして、思い出す。もう、邸で溜息を隠す必要はない。もう、誰もこの邸には残っていないのだから。今はもう誰も残っていない、静かな邸。
陽だまりの庭で、彼女が笑っていたのは、もう遠い遠い昔のような気がした。あるいは、そんな日があったことは夢で、最初から自分の傍には誰もいなかったのではないかとさえ思ったりもする。そして、そうであった方がずっと良かったのに、と思う。自分が、これから、しなくてはならないことを考えれば、そう思わずにはいられない。
あの春の終わり、初夏のころ、薄々予感していたことが本当になるとわかったときから。京と鎌倉はかくも遠いと改めて感じたあの日から、景時の心は決まっていた。
京で仲間と過ごした日々はまるで夢のようだったと景時は思う。……本当に自分にとっては夢でしかなかった。泡沫のような儚さは夢と同じだった。
現実は鎌倉にあったのだ。武家の世を確立するために、戦いをなくすためには、戦い続けなくてはならないという矛盾。並び立つ強者がいる限り争いは終わらない。平家と源氏のいずれかが滅びれば、今度は源氏の中で並び立つ二者が争いだす。頼朝は歩んできた人生の中で嫌というほどその現実を味わってきていた。どんなに自分を敬愛している弟であっても、世を乱す原因にしかならないということを知り尽くしていた。
そんな頼朝を良く知っていたから、夢のような日々の中で景時は予感していたのだ、夢はいつか覚めることを。そして、それを怖れていた。
夢が現実に破られる日は案外に早かった。春の終わりの鎌倉で自分に下された命令は、夢は終わることを確実に示したものだった。
自分のような人間には、一瞬の夢のような煌く日々があったというだけで十分過ぎる幸せだったと思う。しかし、彼女には、彼らには、あんな日々が続くことこそ相応しい。仲間とともに過ごす穏やかな日々が続くことこそ、彼女たちには相応しいと思った。
いつか失うものならば、いっそ最初から何も夢を見ずにいられれば、こんな苦しさを味わうことはなかっただろうに。それでも、こんなにも苦しくて辛くて、それでもやっぱり、たとえひとときの夢であったとしても、彼女に出会えたことも、仲間と共にあったことも、記憶から消したいとは思わないのだ。……たとえ、相手には忘れて欲しいと思ったとしても。
だから、鎌倉で一人、夢の終わりが決まったあの日、景時は心を決めたのだ。


――どうして?


驚きに見開いた瞳は、ただそう問いかけていた。表情を殺して、それでも心の中でだけ、何度も呟いた。ごめんね、と。自分を仲間だと言ってくれた皆に、自分を好きだと言ってくれた彼女に、ごめんね、と。裏切り者と罵ってくれれば良かったのに、と思う。あんな哀しげな表情をされるくらいなら、怒りのままに罵られて別れた方がずっと良かったと思う。
今にも涙が零れそうだった、彼女の表情を思い出せば、今でさえ、心が挫けそうになる。

どうしてオレは。
どうしてオレは、君の傍で君を守れないのだろう。
どうしてオレには、君の傍で君を守る術がないのだろう。
どうしてオレは、こんな風にしか君を守れないのだろう。
どうしてオレには、いつも誰も残らないのだろう。

苦しくて苦しくて、寂しくて、辛くて、泣きたくて。
でも、泣かない、泣けない。自分には泣く資格なんてない、と景時は思う。
強く拳を握り締めて、心に重く蓋をして繰り返す。深く深く息を吐いて、何度も何度も言い聞かせる。
――自分で決めたんだ。これはオレが、自分で決めたこと。
たとえ鎌倉の軍勢に追われることになったとしても、彼女や仲間と一緒に行けたらどんなに良かっただろう。
どれほど苦しくても、仲間となら乗り越えられると無邪気に信じることができたなら、どれほど幸せだっただろう。
逃れゆく先に、自分たちの平穏が見つかると思うことができたなら、どんなに楽だっただろう。
けれど、景時にはわかっていたのだ。逃げたその先には何もないであろうことが。
逃げて逃げて、その先で鎌倉軍に追い詰められた先、何万の軍勢を前に、たとえ龍神の神子と八葉といえども勝つことは難しいであろうことは容易に想像できた。怨霊を封印することができる力を持つ神子は、それでも生身の人間を何千と殺して平然としていられるような人間ではない。何万の軍勢を敵に廻して、自分は彼女や仲間を守れるほどの力を持っていない。追い詰められ、死していく仲間も、彼女も見たくなかった。

君を傷つけても、仲間を裏切っても、どんなに辛くても、皆が死ななくて良い方法を選ぶんだ。
そして、それができるのは鎌倉方にいるオレだけなんだ。オレがしなくちゃいけないことなんだ。
君を守るために、仲間を守るために、オレにしか出来ないことだから。

何度も何度も、言い聞かせてきた。心に決めたあの日から、挫けそうになるたびに何度も何度も自分に言い聞かせてきた。それでも、今でも苦しくて苦しくて寂しくて辛くなる。
春の日、芳しい梅の香りに心が浮き立った日はもう二度と戻ってこない。
夏の日の川辺で抱きしめた温もりも、もう二度と戻ってこない。
そう思うだけで苦しくていっそ今すぐに、何もかもを投げ出してしまいたくなる。
でも、決めたのは、自分。だから、泣かない。泣きたくない。
けれど、せめて祈ることだけは許して欲しい。
自分が決めたことなのに、苦しいと叫ぶこの心が、早く凍てついてしまえばいい。
北の地の凍える寒さに自分の弱い心も凍てついてしまえばいいと。
迷わず、全てを成し遂げることができるように。
静かな邸で一人、間もなく始まるであろう北への旅路を前に、景時はただ繰り返す。
早く全てを終わらせてしまえるように。――そう、この苦しい生も全て終わらせてしまえるように。




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