声もなく、ただ
「望美?」
朔はぼんやりと庭を眺めている望美の背に向かって呼びかけた。
平泉に来る旅の途中も、ここ、平泉に着いてからも、望美は景時のことを何も口にしなかった。以前と変わらず、笑顔で仲間を励ましていた。何もせずに世話になっているのは申し訳ないからと、町で起こる怪異を解決しようとしたりするのは相変わらずのことで。
高館での暮らしも、京での暮らしとそんなに変わらないかのようだった。譲が厨房で腕を振るい、九郎と弁慶はこれからの方針を話し合い、時折、敦盛の笛の音が心を慰めてくれて、天気の良い日にはリズヴァーンが望美と九郎に剣の稽古をつけてくれる。ただ、どんなに天気が良い日でも、鼻歌を歌いながら楽しげに洗濯をする人の姿は何処にもない、それだけのことで。まるで、それ以外は何も変わらないかのような日々。
 それでも、本当は、確実に何かは失われていて、、皆、そのことに触れないようにしているだけなのだ。ふとした瞬間に、皆がその人の姿を捜していることを、誰も口にしなかったけれど確かに感じていた。誰かと誰かが衝突しそうになったとき。何かちょっとした手違いがあったり、上手くいかないことがあったとき。いつも間に立って場を和ませようとしてくれていたのは、ここに居ない彼だった。
 幼い頃から共にいて、朔は自分の兄のことを良く知っているつもりでいた。けれど、壇ノ浦で見た兄は、朔が初めて見る顔をしていた。武家の娘として、時に苦しい決断をせねばならないこともあるということは、良く良く知っているつもりだったけれど、何処かで、兄にはそんな非情な真似ができるはずもないと思っていた。仲間を、妹を、捨ててまで護りたいもの、護らなくてはならないものとは、一体何なのか、朔には兄の心がわからない。
「今日はお天気いいね」
聞こえていなかったのかと思ったけれど、望美の耳には確かに朔の声は届いていたらしい。暢気な応えが返ってくる。
「……鎌倉も、お天気かなあ。景時さんは、お洗濯、してるかな……」
小さな小さな、その呟きを朔は聞き逃さなかった。
「望美……」
春の京で、お互い初々しい様子で、それでも仲良く香合わせをしていた2人を知っている。夏の熊野で2人きり、川辺へ出かけたことも知っている。春の日に2人寄り添うようだったのに、いつの間にか望美が兄を追い掛けるばかりになっていたのも知っている。それでも、朔にはわかっていた、兄はけして望美を疎ましく思っているわけではなくて、むしろその逆であったろうこと。
(想い、想われ、お互いに大切に思っているのに、そんな相手を裏切ってまで
 兄上は何を為したいと想ったのですか)
「……もう一度、会いたいなあ……」
更に小さくなった呟きに、思わず朔は背中から望美の身体を抱きしめた。誰も、ここへ来てから景時のことを話題にしなかった。まるでそれは禁忌であるかのように。望美も九郎や朔のことを考えて何も言わなかったのだろう。朔も、望美と景時のことを知っているだけに口に出すことが躊躇われた。けれど、言葉にしないだけで、きっとずっと望美は景時のことを考え続けていたに違いないのだ。
 小さな呟きの後、再び押し黙ってしまった望美を、朔もただ何も言わずにそっと肩から抱きしめる。朔は、望美の前に回した腕に袖がうっすらと湿ってゆくのを感じ、望美が泣いているのだと初めて気付いた。声もなく、俯くこともせず、ただ静かに涙を零しているのだと。そんな望美に朔もまた胸が締めつけられて、その肩に額を押し当て、涙を零した。
 こんなにも想ってくれる人を裏切ってまで、兄はいったい何を為したいと思ったのか。その答えを知る日は来るのだろうかと切なく思いながら。




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