■□■ 特別な日

 春まだ浅い季節。一頃のような厳しい寒さはもう感じなくなっていたけれど、それでも朝、褥から出るのには少しばかり思い切りが必要だった。しかし、今日という日ばかりは望美にとって特別で、目覚めよくぱっちりと目を開けると共に、自分を緩く抱きしめ眠る人を起こさぬように注意しながらも、躊躇うことなく起きあがった。
「……ん……望美ちゃん?」
「まだもう少し寝ていて大丈夫ですよ?
 朝餉の用意するので、ちょっと先に起きますね?」
訝しげにまだ眠そうに呟く景時に、望美は優しくそう言ってからその額に唇を落として立ち上がった。
 冷たい井戸で顔を洗い、厨へ向かうとまだ朔も起き出してはいなかった。朝餉の準備ももちろんだが、今日は特別な日で、自分の技術力を総合して考えた結果、早起きして準備をしないことには間に合わないという結論に至ったのだ。だから今の時間はいつも望美が起き出す時間からすればちょっと早いのだ。早速、昨晩から水に浸けておいた豆の様子を見る。これを煮込むのに竃を一つ使うから、残った竃で朝餉の用意をするとなると……あれこれ手順を頭の中でおさらいして望美は料理に取りかかった。
 手際が悪いこともあって熱中している間に、どれほど時間が経ったのだろうか。
「望美ちゃ〜ん、おはよう〜。今朝は朝餉、何かなあ」
暢気な声とともに景時が厨へ現れる。味噌汁に入れる蕪を刻んでいた望美は慌てて振り返った。普段なら朝から厨へ来ることは殆どない景時なのに、今朝に限って一体どうしてかと景時の元へ望美は駆け寄る。
「ん〜……この鍋は何が入ってるのかな? いい匂い……?」
竃にかけられている鍋の蓋を取ろうとする景時の手を一瞬早く押さえる。
「だっ、だめ! これは蓋を開けちゃ駄目なんです!」
間に合った、とどぎまぎしながら、望美は景時をめっ、と叱るように上目遣いで見上げた。景時は不思議そうにそんな望美を見下ろして頬を掻いている。
「ん〜……駄目なの?」
そんな仕草でそう言われると、望美は強く言えない。第一、別に景時が悪いわけではないので後ろめたくもあるので、強く言えるはずもない。
「だ、駄目なんです。蓋を開けたら上手に出来上がらないの。夕餉のおかず用なんです」
「そうなんだー。じゃあ、夕餉を楽しみにしていればいいかな」
にっこり笑って、特に疑う様子もなく景時は隣の味噌汁の鍋を覗きこんで嬉しげにしている。内心ほっとしながら望美は
(……この様子だと景時さん、今日のことすっかり忘れているに違いないよね。
 よーし、夕餉でまたびっくりさせちゃおう! 喜んでくれるといいなあ)
とうきうきした気分になってくるのを止められなかった。
 そう、今日は弥生の五日、景時の誕生日なのである。この時代、新年に皆一緒に年を取るのが普通らしく、生まれた日を個別に祝うという風習はない。誕生日を祝う、ということを望美から聞いた景時たちは感心したり驚いたりしたものだ。それでも、望美の願いもあって、昨年も景時や朔、望美の誕生日をお互いに祝った。が、やはり長く馴染んでいないことは忘れてしまうらしく、景時は自分の誕生日が今日であるということをすっかり忘れているようだった。望美はそれをいいことに、今夜は夕餉を豪華にして、贈り物を準備して景時を驚かそうと考えたのだ。
 気が済んだのか、厨を後にしてまた奥へ戻ってゆく景時を見送り、望美は朝餉の準備に戻った。
 その後、いつもと同じように朝餉が終わり(望美は厨の鍋が気になって仕方なかったのだが)、景時は六波羅へ仕事に出かけて行った。
(景時さんが帰ってくるまでに、夕餉のごちそうと、デザートと、あと贈り物も買いに行っておかなくちゃ!)
贈り物についてはもう目星はつけてある。市に出ている小間物屋で、素敵に洒落た翡翠の彫刻を見つけたのだ。飾り紐をつければ根付けのようにできるだろう。それに、随分前から準備している着物もあるのだ。仕上げをしてしまえば今日中に出来上がる。景時に見つからないようにこっそり縫い上げるのはなかなか大変だったが、なんとか間に合いそうで嬉しかった。
 景時を見送った後、厨に戻り、鍋の蓋を開ける。柔らかくちょうどよい具合に小豆が煮上がっていた。
(あとは、これを甘くしたら餡ができるかな! 生クリームのケーキは無理だけど、これで餡をはさんだケーキっぽいものが作れそう)
望美の頭の中にあるのは、薄めのホットケーキを重ねて、その間に餡を挟んだ和風ミルクレープもどきだ。ケーキにこだわる必要もない気がするが、やはり誕生日はケーキにしたい。そんなことを考えながら、鍋の中の小豆をかき混ぜ、よしよし、と頷いている望美の背後から、突然声がかけられた。
「望美ちゃん!」
「えっ! 景時さんっ!? お仕事行ったんじゃないの?」
慌てて鍋に蓋をかぶせる。
「ごめーん、忘れ物しちゃってさあ〜」
あはは、と屈託なく笑いながら景時は望美の隠した鍋を不思議そうに覗き込もうとする。
「あの、なんでもないの、ちょっと焦がしちゃって!」
今にもつまみ食いのために蓋を取りそうな景時に望美は慌ててそう言う。少しすまなそうな表情を作ると、景時は望美の頭をそっと撫でて
「ちょっとくらい焦げてたって、オレは平気だよ、いつも美味しい料理、ありがとうね!」
と言うと、そっと望美の髪に口付けて再び出かけて行った。なんだか少し騙したようで胸が痛んだ望美だが、景時の優しい言葉になおさら美味しいものを作るぞ、とやる気になった。
一通り、餡を作り上げてしまった望美は市へ先に出かけることにした。なんと言っても狙っているものが売れてしまっては話にならない。
「朔ー、ちょっと市に出かけてくるね!」
誰か護衛に連れていくように、という朔の声も届かぬように、慌しく望美は邸を出て行った。
ぱたぱたと小走りで市へ向かう。思っていたものがある店は市の中ほどに確か店を出していた。目印があるわけではないが、だいたいの記憶を辿って当たりを見回しながら店を探す。ほどなく、目当ての店を見つけてそこへ走っていった。
(えーと……あるかな、あるかな)
きゅっと銭の入った巾着袋を握り締めて並べてある品に目を走らせる。
(あった……!)
前々からコレ、と決めていたその品に手を伸ばしかけたそのとき! 再び望美の背後から
「あれー? 望美ちゃん?!」
と暢気な声がかけられて、望美はびっくりして出しかけた手を引っ込めたのだった。
「かっ、景時さん?!」
何故、こんなところに景時がいるのか、よりによってここに! と望美は困り果ててしまう。
「ど、どうしたんですか? こんなところに……」
それはお互い様ではあるのだが、ついそう景時に向かって言ってしまうのも無理はないだろう。景時はというと偶然望美に会えたことが嬉しいのか、にこにことした笑顔で
「うん、この近くに書状を届けた帰りだよ。せっかくだし、ちょっと賑やかなところ覗いていこうかなーって……」
「もう、お仕事さぼっちゃだめじゃないですかー」
「あははは、そうだねー、弁慶や九郎にバレたら怒られちゃうな。
 でも、おかげで望美ちゃんに会えたんだし、少しくらい怒られてもいいや」
照れもせずに、そんなことを言う景時に、望美の方が照れてしまう。
「で、望美ちゃんはどうしたの? 何か欲しいものでもあった?」
「う、ううんっ、なんでもないの、私もちょっと通りかかっただけなの!」
慌てて景時から自分が欲しいと思う品が見えないように立ちはだかる。そしてそのままその手を取って店を離れた。
「じゃあ、景時さん、ちゃんとお仕事してきてくださいね?」
「うん、望美ちゃんも気をつけて帰ってね? ……やっぱり邸まで送っていこうか」
「大丈夫ですっ、大丈夫ですから!」
別れてからまた店に戻って目当ての品を買おうと思っている望美は、そういう景時を遮って言い切ると、強引に景時の背を押した。
「じゃ、景時さん、お仕事頑張ってくださいね!」
「うん……気をつけてね、ちゃんとこれからは護衛をつけなくちゃダメだよ?!」
何度も何度も振り向いて景時は歩いて行った。その背を見送って、背伸びをしてもその姿が見えないようになったのを確かめてから、望美は再び店へと小走りに駆けて行った。おかげで予定の時間より少し過ぎてしまった。早く邸に戻って着物の仕上げをしなくては……! 多少焦りながら望美はなんとか目当てのものを手に入れて、邸へ走って戻って行った。
 それから昼餉もそこそこに望美は着物の仕上げに集中した。元々、もちろん、裁縫など得意でもない。増してミシンなどあるわけない世界で、全て手縫いで景時の着物を仕上げるのだ。時間も勿論かかったし、縫い目もまだまだ稚拙なものなのはよくわかっている。いきなり、こんな大きなものを作るのは無謀だと思いもしたのだが、それでもやはり、作りたかったのだ。
(好きな人のセーターを編むとかさ、乙女の定番じゃない?)
元の世界に居た頃は好きでも何でもなかった裁縫も、景時のものを縫っていると思うと楽しくて仕方がないのだ。もうあと少しで仕上げも終わるというとき、庭から突然声をかけられて望美は今日三度驚いた。
「望美ちゃん、居る?」
慌てて縫いかけの着物を畳むより早く丸めて几帖の影に隠して立ち上がり、縁に出る。庭先に景時が立って望美の顔を見るとほっとしたような笑顔になった。
「良かった、ちゃんと帰ってたねー。市で別れたけど、やっぱり気になっちゃって。
 九郎に行って抜け出してきちゃったよ」
ああもう、この人ってば……と望美は嬉しさと愛しさが入り混じってしまってどう答えて良いやらわからない。それでもここは妻としてはしっかり言っておかねばと、無理に怒った顔を作って景時を見つめた。
「景時さん! 大丈夫です、って言ったじゃないですか。
 私のせいで景時さんのお仕事がはかどらないなんて、私、景時さんの仕事の邪魔になってるんですね」
「そ、そんなことないよ! ちゃんとやらなくちゃいけない仕事は終わらせてきたんだよ?
 望美ちゃんが心配だから、一生懸命やってきたんだから、本当だって」
弁解するように慌ててそう言う景時をなおも望美はじっと見つめる。景時の様子では、その言葉に嘘はないのだろう。それでも望美としてはもう少しの間、景時に邸に戻ってきてもらっては困ったりもするので、なんとか仕事をもうひと頑張りしてきてもらいたいのだ。
「でも、私のせいで景時さんが早引きしてばかりだったりしたら、やっぱり申し訳ないです。
 九郎さんたちはまだまだ六波羅で頑張ってらっしゃるのに……」
「……うん、そりゃ、オレも頑張らないと、ってちゃんと思ってるよ」
「心配して帰ってきてくれて、嬉しかったです。でも、大丈夫ですから、もうちょっとお仕事頑張ってきてくださいね?」
きゅっと景時に抱きついて望美はそう囁き、その頬に口付けた。途端に景時の頬がほんのりと赤く染まって、顔がぱっと明るくなる。
「うん! そうだよね、オレも一家の主として頑張らないとね! もうひと頑張りしてくるよ!」
だから、もう一回ね? という景時に、ちょっとだけ苦笑しつつも望美はもう一度口付けを送り、景時を見送ったのだった。その姿が門を越えて見えなくなると、望美は再び小走りに部屋に戻り、丸めた着物を広げる。なんとか皺にならずに済んだ様でほっとする。それにしたってこの調子で間に合うのだろうかと、望美はまたもや時間との戦いに追われることになるのだった。

■□■

「うわー、今夜はすごいご馳走だねえ」
夜、邸に戻って来た景時は夕餉の膳の豪華さに感嘆の声をあげた。この時代、東国武士ともなればまだまだ食卓は質素なものだ。譲が邸に居た頃は望美の居た世界の珍しい料理を振舞ってくれたりもしたが、普段は汁物に小鉢、そして魚が付くくらいである。それが今日は祝いの膳のように膳が3つも並んでいる。
「景時さん、お誕生日おめでとうございます!」
望美は目を丸くした景時の向かいに座して満足そうにそう言った。言われた景時はその言葉に
「ああ! 今日はそうかー、オレの誕生日ってやつか!」
と手を打つ。うきうきとした表情で膳の前に座した景時は、しかし膳に手をつけようとはせずに、何かを待つように望美をじっと見つめた。その様子に望美は少しばかり眉を顰める。確かに、今、望美の手には市で買った品があり、几帳の影には着物が置いてある。が、景時は知らないはずだ。
「……景時さん?」
「ん?」
にこにこ笑って景時が小首を傾げて望美を見る。
「……わかっていましたね?」
望美は上目遣いに景時を睨む。途端に景時は「あ、あははー」と笑いながら頭を掻いた。その顔が赤くなってどうやら望美の言うことが図星だったことを示していた。
「……もうっ! わかっていて面白がっていたんですね!
 家に戻ってきたり、市に来てみたり……! いつからなんですかー!」
すっかり拗ねてしまった望美を宥めるように景時が慌てて立ち上がって望美の隣にやってきて座るとその肩を抱いて懸命に言い訳する。
「いや、あのね、去年も祝ってくれたでしょ、望美ちゃん。
 オレがさ、望美ちゃんにしてもらったことを忘れるはずないじゃない?
 それに今朝、望美ちゃん早起きさんだったし。
 でも、面白がっていたわけじゃないんだよ?」
つん、と望美は景時から顔を背けて横を向く。景時は望美が顔を背けた方へ移動してなおも言い募る。
「望美ちゃんが、オレのために一生懸命になってくれているのが、嬉しくってさ、
 ずっと見ていたかったんだよー。
 今日一日、望美ちゃんはずっとオレのこと考えていてくれてるんだーって
 なんていうか、望美ちゃんから目に見えないものを貰っているような気がしてさ
 いつだって望美ちゃんのこと見ていたいけど、
 今日は特別もっともっと見ていたいっていうかさー」
放っておいたら、まだまだ恥ずかしいことを言い募りそうな景時に、望美もだんだん恥ずかしくなってきて思わず
「もうっ! わ、わかりました! わかりましたから!」
と叫んで景時の口を押さえる。
「ほんと? 怒ってない?」
きらきら目を輝かせてそう言う景時に、そんな表情を見せられてまだ怒っていられる人間がいたら教えて欲しいと望美は思ってしまう。
「怒ってません……っていうか、怒れませんよ、そんなこと言われちゃったら」
(それに、景時さんのお誕生日なんだし)
――景時のことが、大好きなのだし。
「良かったー! でもでも、オレ、望美ちゃんが何を作ってくれてるかとか、
 何を買ってくれたかとかまでは
 知らないよ? そこまでは見ていられなかったしさ。
 だから、えーと、何が貰えるかはすごく楽しみだったりして、
 今日一日ほんとずっとそわそわして
 仕事が手につかなくってさー」
悪びれる様子もなくそう言う景時に、望美は溜息をついて良いのやら笑って良いのやら困ってしまい、とうとう笑ってしまった。しかし、さすがにちょっとばかり悔しいので
「……でも贈り物は、夕餉の後です!」
と言ってみる。一瞬景時が、ええーっ、と言いたげな顔をしたものの、
「私の作ったご馳走、食べるのいやですか?」
と望美に言われて慌てて首を横に振る。満足げににっこり笑った望美はもう一度、心をこめて言った。
「お誕生日おめでとうございます、景時さん。
 お膳、全部食べ終わったら、あと、ケーキがありますからね?
 全部、残さず食べてくださいね?」






PSY-YEN
津神 森生