■ 届かないキス ■
ほう、と望美は溜息をついた。冬休み、やることはたくさんある。宿題だってある。多分、今の内に片づけてしまった方が後々楽なのはわかっているし、そうすべき理由を自分は持っている。社会人である景時の冬休みはもう少し後から始まるから、望美が今の内にやるべきことをやっておけば、年末年始と二人で心配なく遊ぶこともできるというわけだ。なのに、手につかない。
理由はわかっている。距離が近づけば、離れている時間だってもっと我慢できるようになると思っていたのに、全然違った。机に広げた教科書とノートの上に突っ伏してしまう。
ついつい思い出してしまう。景時の、指や吐息や囁き声……
「だーーーーっ!! 駄目っ! ダメダメ駄目ー!」
脳裏に浮かんだそれらを、手を振り回して望美は振り払った。熱が出たように顔が赤い。
昨日、二人でいるときは全然そんなことを思い出しもしなければ意識もしていなかったのに。初めて一緒に朝を迎えて、嬉しくて幸せで、そんな気持ちがずーっと続くのだとばかり思って浮かれていたのに。昨日の夜になったらもう駄目だった。たった一晩同じベッドで眠っただけなのに、もう一人のベッドが寂しい。昨日会ったばっかりなのに、今日はもうつまらない。
(こんなじゃ景時さんに呆れられちゃう……)
なんとかしなくては、と望美は考えて時計を見る。現在、午後3時。景時の仕事の終業時間まであと2時間30分。
(良し、決めた!)
望美は携帯を取り出してぽちぽちとメールを打ち、それが終わるときゅ、と表情を引き締めた。何事もご褒美がなくては前に進まないもの。今日のノルマを果たしたら自分にご褒美! と決めて望美は再び机の上の宿題に挑み始めた。
宿題との戦いは、今日のところは引き分け、と言ったところだっただろう。目標の時間には届かなかったがなんとかやり終えた望美はがっくりと机につっぷした。元々、勉強が好きなわけではないし、去年の冬休みだってだらだらとこたつで宿題をやるともなくやっていた。今年はそれを思えばまだ頑張っている方だとは思う。それはやはり、ひとえに景時のせいだといえるだろう。自分がしっかり地に足つけていなければ、彼の負担になってしまう。彼が自分を駄目にしたと言われてしまう。それはとても申し訳ないではないか。彼のおかげで自分は強くなった、しっかりした、そんな風にこちらの世界の人にだって認めて欲しいのだ。自分のことも、彼のことも。
「あ〜……めっちゃくちゃ頑張ったよ……」
そして、がばっと身体を起こすと、本日の自分へのご褒美を与えるべく携帯を手に取った。
呼び出し音が3回。
『もしもし、望美ちゃん? 宿題できたんだ?』
優しい声が耳元に響く。今日のご褒美、それは景時への電話。
「終わりましたー! 頑張りましたよ、景時さんの声を聞くために!」
その声を聞くだけでほっとして、胸が温かくなって、幸せな気分になる。
『良かったー。今日、望美ちゃんの声が聞けなかったらどうしよう、って思ってた』
「あ、私が宿題終わらせられないって思ってたんですか?」
ちょっと拗ねたように言ってみる。さっき打ったのは景時宛のメール。曰く“今日の分の宿題やり終えるまで、景時さんに電話しないって決めました! 宿題終わったらご褒美なの。だから、今日の電話が遅くなったらごめんなさい。でも絶対終わらせて電話するから!”
『そ、そんなことないよー。望美ちゃんなら、自分で決めたことちゃんとやり遂げるだろうし。
遅くまで頑張っちゃうのかなーって思ってさ……』
景時には宿題の量なんて想像もつかないだろうから、どれくらい時間がかかるなんてこともわからなかっただろう。心配かけちゃったかな、と少しだけ望美は悪く思った。
「ご褒美のためにすっごく頑張ったの。景時さんの声が聞きたいもの」
言ってからなんだか照れてしまう。顔が見られないのが幸いだと思った。でも、赤くなってしまった自分の顔は見られたくなくても、景時の顔は見たいなあ、などと思ってしまう。
『……オレも今日、仕事なかなか手に付かなくてさ、
仕事が終わったら望美ちゃんの声が聞ける、って思って頑張ったよ?』
少し笑いを含んだような声で景時が受話器の向こうで言った。その言葉に望美は嬉しくなってしまう。
「じゃあ、この電話、景時さんにもご褒美? 待たせちゃってごめんなさい。
ご褒美のキスでも送りたいけど、電話じゃ届かないですね」
隣にいたって、背伸びしたって屈んで貰わないと届かないし、そんなことを言うのも照れ臭くて自分から景時にキスなんてしたことなどないけれど。電話ならそんなことも言えてしまうのが不思議だった。
『オレも、頑張った望美ちゃんにもっとご褒美あげたいな〜
だからさ、あと10分くらいしたら窓の外を見るか、外に出てきてよ』
楽しげにそう言う景時に、望美は驚いてすぐに窓の外を見た。しかし、家の前の道路に人影はなく。
「か、景時さん、来てるの?」
『うーん、とね。歩いてる。望美ちゃんの家まで? もうちょっとで辿り着くかな。
なんだかさ、メール見て、君が頑張ってるって思ったら、近くで応援したくなっちゃって……』
というか、会いたくなっちゃったってところかな、と受話器の向こうの景時が笑う。歩いてるって、と望美は景時の職場からの距離を考えて驚いてしまう。いくら、向こうの世界では歩くのが常識だったとしても。だから歩くのは景時にとってそんなに苦でもないとしても。
「じゅ、10分も待てないから! 私も今からご褒美届けに行きますから!
途中で出会えるでしょう? そしたら一緒に歩けるし」
言いながら望美は階段を下りて玄関へ向かっていた。コートを羽織ってもどかしく靴を履いて。
寒い空気も苦にもならない。
道の向こうにせいたかノッポな影が見えたら、駆け寄って抱きついて、そして少し屈んで欲しいとお願いをして。彼にご褒美のキスを送ろう。そして、自分にご褒美のキスを貰おう。携帯片手にまだ話しながら、望美は駆け出していた。