*雨に降られた十日間*
■まだ濡れたままのアスファルトの上を■
「今日は雨、上がってますよ〜」
朝一番に窓を開けた望美が景時を振り返ってそう言った。ベッドサイドの窓から雲間に青空が覗いているのが見える。
「ほんとだ。今のうちにコンビニ行っちゃおうか」
実は昨日は濡れながら帰ってきてしまったものだから、冷蔵庫の中にあまりモノが入っていない。朝ご飯に食べる軽いものを買いに出かけようと景時は起きあがりながら望美に提案した。時間としてはもう早朝とは言い難い時間。おなかも少しばかり空いてきて当然で。
「んー、コンビニもいいですけど、ほら、モーニングやってる喫茶店!
 どうせなら、あそこまで行って外で食べちゃいましょうよ」
望美にそう言われると、景時も否はなかった。
外に出れば雨上がりの街はそこここの木々の葉に水滴がきらめき、土の匂いがした。どこか懐かしい匂いだ。まだ濡れたままのアスファルトはところどころに水たまりが出来ていて、それをものともせずにスニーカーの望美が軽やかに飛び越えていく。
それが楽しそうで景時も真似して飛び越えてみたり。
「景時さん、足が長いから余裕ですね」
ちょっとうらやましげに望美が言うのに「足が長いって……背がひょろひょろ高いからその分だよ〜」と景時は苦笑した。景時の横にするすると寄ってきた望美が自分の頭の上に手をあてて景時の身体へスライドさせる。その仕草がかわいらしくて景時は笑ってしまいながら、精一杯直立不動なポーズをとってみせた。
「うーん、頭ひとつは違いますよねえ。足のほうも…」
と今度は腰の位置にに目をやる。そうして改めてまじまじと足の先から頭のてっぺんまで景時を眺め回して、望美が溜息をついた。
「ど、どーしたのー?」
何か可笑しかったかと景時が少し心配そうに首を傾げて問いかけると、望美は唇を尖らせて悪戯っぽく景時を見上げて言う。
「やーっぱり、景時さんって、かっこいいなぁ〜」
「なっ、なに言ってるのさ、望美ちゃんっ、からかわないでよ、もう」
意外な言葉に景時の言葉が詰まってしまう。顔が熱くなるのがわかって、困ったように右手で口元を押さえる。しかし、してやったりというような表情の望美に景時は顔が赤いのを誤魔化すように、めっ、と眉を顰めると望美を捕まえようと手を伸ばした。望美はそれをするりとかわして、笑いながら逃げる。景時はそれを追いかける。けして本気ではないじゃれあいのような追いかけっこをしているうちに、だんだんと日差しが明るくなっていく。急に立ち止まった望美が晴れ渡る空を見上げ、追いかけてきた景時が覆いかぶさるように背中から望美を抱きしめた。
「今日はスカッといい天気になりそうですね!」
「洗濯日和ってやつかな! モーニング食べて戻ったら布団も干しちゃおう!」
気ままに歩いてやっとたどり着いた喫茶店で窓際に向かい合って座る。
「トーストや珈琲にサラダもベーコンエッグも、家でも作れるけど……
 やっぱり、お店の味って違うよねえ」
特に珈琲のこの香りはな〜、と景時が言うと望美は
「うーん、でも景時さんが淹れてくれる珈琲だって、かなりプロ並だって思いますよ〜」
と言ってくれた。惚れた欲目でそう言ってくれるのかもしれないが、いずれにしても嬉しい言葉だ。思わず顔が緩んでしまうのはもちろんのこと。陽の当たるあたりは少し乾きかけてきて、斑に見えるアスファルトを眺めて景時はふと望美に尋ねる。
「ねえ、望美ちゃん、今日さあ、傘、買いに行く?」
二人そろって傘を貸してしまったので、今雨に降られてしまうと家にあるのはオンボロビニール傘と折りたたみ傘だ。今日は雨が降らないかもしれないが、今後も降らない、わけがない。問われた望美は顔を上げて、窓の外を眺めた。そうしてしばらく考えていたが、景時に向かって少し首を傾げながら言った。
「うーん……あの……絶対、っていう確信があるわけじゃないんですけど……
 でも、あの傘、戻ってくる気がするんですよねえ」
だから、急いで買いに行く必要もないような気がして、と望美は呟くと、伺うように景時を見遣る。それへ景時も片目を瞑って笑った。
「そうなんだー。偶然! オレもね、傘は案外すぐに戻ってくるような気がするんだー」
すると望美も嬉しそうに笑った。
「なんかねえ、オレが傘を貸した子は、結構真面目そうな子だったからさ」
「なんだか、私が傘を貸した人は、負けず嫌いっぽい人だったから」
お互い同時にそう言って、そうして望美はなるほどと納得したものの、景時は不思議そうな顔をした。
「……? 負けず嫌いっぽい人って」
それがどうして傘をすぐ返す人になるのだろう、と景時が問うのに望美は苦笑しながら言う。
「んー、なんていうか、誰かに借りを作るのが嫌いっぽいなーって思って。
 だから、傘も借りっぱなしって嫌なんじゃないかな、って」
それを聞いた景時が感心したように頷くのに、今度は望美が不思議そうな顔をした。
「いやあ、だってさー、誰かに借りを作るのが嫌いそうな人に、傘を借りさせるってさすが望美ちゃんだなーって思って」
「……変なことで感心しないでくださいってば、もう」
どう反応して良いのか困る望美は、そう言うと珈琲を飲み干した。
帰り道、まだ少し濡れたところが残る道を歩く。緩く坂になった道の先はもうすぐ家だ。見通しの良い道の先に、人の姿を認めて景時はふと目を留めた。住宅街のこの通り、道行く人が珍しいわけではないけれど、何故か目に付いたのは、その人たちの姿が目を惹いたからか。もう雨の様子すらないこの天気に傘を手にして歩いている姿が珍しいからか。遠目に見ても目立つ華やかな印象の男性と、望美と同じ年くらいの少女が歩いている姿が目についた。
「ん〜……?」
つい首を捻ると隣の望美も同じように目に留まったらしく立ち止まって景時を見上げる。
「ねえ、見覚えのある傘、だよね?」
けれど、お互い思うのは、見覚えのある傘を見覚えのない人が手にしているなあということで。二人は付かず離れず歩いているけれどその微妙な距離が、恋人同士ではないようだ。なんとなく訝しく思いながらも景時と望美はまた歩き出した。
「ね、お客さんかもしれませんね」
望美がそう言って景時を見上げる。
「うん、お客さんかもしれないねえ?」
景時もそう言って。案外傘が返ってくるのは早いかも、そんな二人の予感はぴったり当たっているような気がした。
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