*雨に降られた十日間*
■天からのシャワー■
「磨墨、ほんと、お前がオレを追ってくるなんて思ってなかったよ〜」
景時は跨った愛馬の首を優しく叩いた。ゆっくりと歩を進めていた馬は答えるように一度だけ嘶く。何日か前に、町外れにどこかからやってきた馬がいて持ち主がわからないから、牧場で世話を頼むと町長が連れてきたのだ。その馬を見て驚いた。もともと、自分が飼っていた馬だったからだ。
「……ってことは、オレがここに居るのもばれちゃってる……んだろうねえ」
困ったように景時は眉根を下げる。以前の自分ならさらにここから逃げることを考えただろう。しかし、今は、そうしたくない。そうできない。
(望美ちゃんが居るから……)
それに、もうひとつ。
(……案外、畑仕事や牧場仕事が性に会ってるるんだよねえ)
毎日、土を触って動物たちの世話をして、町の人と笑顔で挨拶を交わして、そして傍には望美がいてくれる。こんな心穏やかな幸せを感じられる日が来るなんて思ってもいなかった。けれど、景時にはよくわかっている。今のこの幸せも穏やかな毎日も、逃げた結果でしかないなら脆いものでしかない。
気付くと、いつのまにか望美の家の前まで来てしまっていた。馬の歩みを止めて、望美の部屋があるという2階の窓を見上げる。雨が降った日に雑貨屋で出会った彼女。かわいい子だな、とは思ったけれど、最初はただ置いてきた妹の代わりのような、そんな気持ちだった。けれど、いつからだったか、彼女の瞳の中に揺らめく気持ちに気付いて。それでも彼女の気持ちに気付かない振りをして傍に来てくれることを拒まなかった。きっと、そのときには自分だって彼女を妹のようには思っていなかったに違いない。
ほろ苦くぼんやりと考えていると、突然望美の家の玄関がばたん、と大きな音を立てて開いた。
「景時さんっ!!」
飛び出してきたのは望美だ。きらきらと眩しい笑顔で景時めがけて駆けてくる。
「どうしたんですか? あ、この子、町外れにいたっていう馬ですね! すごい、すっかり景時さんに懐いてる」
怖がる素振りもみせずに、磨墨の顔を覗きこむ。
「大丈夫? 大きい馬なんて怖くない?」
「どうしてですか? 景時さんとこの子でしょう」
笑ってそう言われて、望美が自分に寄せてくれる信頼に胸が痛くなった。自分には彼女に告げていないことがある。家族のことも、何故ここへ来たのかも、何も話していない。そして、何も話していないことを彼女もちゃんと承知している。何かを隠しているとわかっているのに、それでも望美は景時を信じて止まない。
「ね、望美ちゃんも、乗ってみない?」
景時は手を望美に差し出す。
「え…、でも、重くないですか」
「大丈夫だよ、おいで」
磨墨も任せてとでも言うように首を縦に振り、それに望美は笑って景時の手を取った。
「うわ、たかーい!」
初めての馬の背に、視界が変わって望美がはしゃいだような声を挙げた。腕の中に望美を抱え、胸にその温もりを感じる。
(このまま、一緒に、逃げてしまおうか……何も訊かずに一緒に逃げて、って頼んだら、ねえ、君はなんて言うかな?)
そんな景時の心を知らない望美が顔を上げて景時を見上げた。
「ね、景時さん、空……」
望美の手が空を指差す。
「ん?」
何だろうと訝しげに望美の顔を景時が見返すと、望美は何処か悪戯っぽい顔になって言った。
「降ってきそうです、空。」
「え? あ、わあ……」
空の向こうには青空も見えているというのに、真上に広がっているのは重たい雲。
「ご、ごめ……、すぐに戻るよ…!」
連れ出したのに雨が降り出して濡らしてしまっては申し訳ないことこの上ない。磨墨を駆けさせようとした景時の手を、望美が抑えた。笑いながら彼女が言う。
「なんだか、景時さんとは雨のご縁があるみたいですよね! 出会ったのも雨の日だし…。
 私、おかげで雨が好きになっちゃいました。
 びしょ濡れになっちゃっても、景時さんと一緒だったら、天からのシャワーを浴びてるみたいないい気分ですよ」
自分と一緒にいることが、何よりも幸せだと言ってくれる彼女を裏切りたくないと思った。逃げてばかりではいけない。本当に彼女と一緒になるために。逃げるのではなく、立ち向かっていかなくては。景時は自分の手に重なった望美に手をそのままに、磨墨を急がせた。その行き先は望美の家ではなく、もう今ではすっかり自分の家として馴染んでしまった牧場だ。
「景時さん、早いですよぅ、雨雲より早いかも」
その速さに景時に望美がしがみつく。降り出すより先に牧場にたどり着いたものの、景時が望美を連れて向かったのは、家ではなくて畑の方だった。この夏最後の実りをつけているトマトやとうもろこしの夏野菜たち。色づいているりんご。式たちが今日も懸命に畑に水を撒いていて、景時はそれらを本当に自分は好きになっていたんだなあと思った。
「ね、望美ちゃん」
「はい?」
何時に無く真剣な声音の景時に、望美が訝しげに景時を見上げる。景時の瞳のいつもと違う光に、望美が一瞬、怖れるような表情になった。
「オレね、ここを出ていこうと思うんだ」
「っ!!」
望美の手がぎゅっと景時の服を掴む。どうして、と声にならずに表情で景時に問いかけてくる。今にもその表情は泣きそうだ。景時はその頬にそっと手を添えて、優しく微笑んだ。
「前に、オレ、言ったよね。君に話せないことがいっぱいある、って。
 オレね、ここへ逃げてきたんだ。でも、逃げてばかりじゃ何も変わらない。
 でも、オレは、ここで君とずっと暮らしたい、君と何の曇りもない幸せな日を過ごしたい、
 君にも同じように幸せな日々をあげたい、そう思うんだ」
だったら、なぜ……と望美の唇が動く。景時は小さく頷いた。
「だからね、もう逃げなくても良いように、ちゃんと戦ってくる。
 ここで胸張って生きていけるように、問題を解決してくるよ。
 だからね、待っていてくれる? ここで、式たちと一緒に、オレと君の畑を護っていてくれる?」
だってね、もう秋野菜の種は買っちゃったし、葡萄が秋には収穫できるようになっちゃうし、式たちは連れていけないし、と強請るように首を傾げてそう告げる。望美の目から、一粒、二粒、涙の雫が零れた。
「……望美ちゃん……我侭言って、ごめんね」
そう言うと、望美は俯いて首を何度も横に振った。それからぎゅっと景時にしがみつく。
「待ってますから…! 秋野菜も育てて、冬の間も、春になっても、また夏が来ても
 景時さんが帰ってきてくれるまでずっと待ってますから…!」
「……うん……ありがとう」
景時は、そっとぎゅっと望美を抱きしめた。そんな二人にやがて静かに天からのシャワーが降り注いだ。
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