■ 至福のひとときです ■
ふんふんふ〜ん
庭から聞きなれた鼻歌が聞こえてくる。朝餉が終わったあと、姿が見えないと思ったら……と望美はくすり、と笑って庭へと廻った。
思ったとおり、庭では景時が気分良さそうに洗濯をしていた。大きな身体が盥の前でごっしごっしと着物を洗うリズムに合わせて動いている。手馴れた様子で迷うことなく止まることなく、流れるように着物を洗っていき、次々と洗い上げられた着物が軽く絞られて横へとどけられていく。時折、きれいになったのを確かめるように広げて様子を見て、そしてまた洗い続けられていく。案外に洗濯は重労働なのだけれど、景時の手にかかればとてもそんな風には見えずに仕上がっていく。
「景時さん!」
望美は景時の背に近づいて、そう声をかけた。
「あ、望美ちゃん」
鼻歌が止んで、景時が振り返る。照れたような笑顔は、もう望美は景時のこの趣味を良く知っているとはいうものの、未だに気恥ずかしいところがあるのだろう。
「寒いのにご苦労さまです。手、大丈夫ですか?」
「ん、平気平気! 気持ちいいよ〜。井戸水は案外、あったかいからね」
「お手伝いしましょうか」
「いいのいいの! 水冷たいから!」
矛盾した二つの言葉に望美は思わず笑ってしまう。景時もそれと気付いて決まり悪そうな顔になった。
「じゃあ、干すのは手伝わせてください」
それでも景時の気持ちを思って、望美はそうとだけ言った。とても大切にしてくれる、彼の心が嬉しいから。
「うん、じゃあそれはお願い」
景時も望美の気持ちを受け取ってそう言う。本当を言えば、彼女と二人で過ごせる時間がとても嬉しいのだから。望美は景時の隣にしゃがみこんで、干す段になるのを待つ。
「あ、そういえば、新年になって初めてのお洗濯?」
気付いたようにそう言うと、景時も頷いた。
「そうそう、洗濯初めってところかな〜。なんだか、全部真っ白って感じでいいよね。
着物も洗濯して真っ白、新しい年で真っ白、一番最初で真っ白。だから、気持ちも真っ白で気持ちいいって感じ」
ぎゅっと着物の一枚を強く絞りながら景時がそう言う。多分、一年前だったら今の景時の言葉を辛い気持ちで聞いていたと思う。汚れを落とした白さに憧れる彼の気持ちが痛くて。でも今は違う。
「そうですね、まっさらの白って感じ。気持ちいいですよね」
一年前と今と。真っ白い洗濯物を心地よいと感じる気持ちに違いがある。白はもう憧れの色ではない。始まりの色だ。これから始める、これから始まる、二人で染めていく色。
二人で洗濯物を伸ばして、掛けていく。時折軽く吹いて行く風が布を撫でていった。全てを干し終えると、庭はまるで大きな旗が何枚もはためいているかのようにさえ見えた。
「はい、終了〜」
大きく伸びをして景時が満足そうにそれらを眺めた。望美も隣に立って景時の真似をして伸びをする。
「すごーい、うん、気持ちいい眺めですね!」
風も冷たいけれど空気は澄んでいて、手先は冷えていても動かしていた身体は内からぽかぽかと暖かく感じられる。しみじみ眺めつつ景時が真面目そうに言う。
「オレね〜、前から洗濯が好きだったけど、もっともっと好きになってきてるんだよね〜」
思わず望美は噴出してしまう。
「皆に隠すの大変ですね。悪いことじゃないのに」
源氏の軍奉行が洗濯好きなんて士気に関わる、と以前は隠していた。今となってはもう戦もなくなって士気がどうのと言うこともなくなったかと思ったけれど、今度は違うらしい。西国統括の右腕と言われる切れ者が洗濯好きでは相手から軽く見られる、ということらしい。
「変な顔しなくて、喜んで付き合ってくれるの、望美ちゃんくらいだよ」
でも、だから余計に好きになるんだよね、洗濯、と景時が呟く。首を傾げて望美は景時を見上げた。
「だってさ〜、好きな洗濯に、大好きな望美ちゃんが付き合ってくれて、二人で出来るんだよ?
ますます好きになって当然だと思わないかい? 洗濯も、望美ちゃんも」
満面の笑顔でそう言う景時に、果たしてその台詞は天然なのか、確信してのものなのか望美は赤い頬をして探るように見つめるけれどわからない。それで、望美も負けずに言ってみることにする。
「私も、お洗濯って大変だし面倒だし、誰かがやってくれるものだって思っていましたけど、好きになりました。
だって、二人で出来て、景時さんが楽しそうにしていてるんだもの」
景時が目を丸くして照れたような表情になる。望美は満足げに微笑んだ。参ったなあ、と景時も頬をかいて笑った。そして空を見上げて、視線は空を見上げたまま、そっと手を伸ばして望美の手を取る。望美も気付いてその手を握り返し、景時と同じ、空を見上げた。
「オレね〜、このごろ、ああ、幸せだな〜って思うことが増えたんだ。
なんだか、嘘みたいだよ。前は空を見上げるときはね、なんでだろう、って思うばかりだったんだ」
望美はただ黙って聞いていた。
「こんなに空は澄んでいて、何も憂うことなんかないってくらい綺麗なのに、なんでオレは地面に這いつくばっているんだろうって。
月がどんなに輝いていたってオレには手は届かないって。
でも今は違う。空が澄んでいると、気持ちいいくらい洗濯日和だなあって嬉しくなるし、
月が輝いているのを見たら望美ちゃんとお月見したいなあ、なんて思ったりして、
その度ごとにオレって幸せだなあって思えるんだ」
多分、今彼が空を見上げているのは、そんな幸せを胸いっぱいに感じているからであり、そしてまた、照れくさいからでもあり、照れた顔を望美に見られるのが恥ずかしいからでもあるだろう。望美は繋いだ手はそのままに、景時に寄り添うように身体を近づけた。そして言う。
「私も、幸せだなあって思うことが増えました。
今まで当たり前だと思っていたことや、なんでもないと気付きもしなかったことも
景時さんと二人だと、楽しくて嬉しくて、幸せだなあって思えるの」
うん、と景時が頷いて、望美も景時の腕に頬を寄せた。
以前は、未来が時に怖いものに思えた。この道を進むことが正しいのか、また彼を失うことになるのではないか。この先に悪いことが起こるのではないか。未来は不確定で恐ろしいものだった。でも、今は違う。二人なら、乗り越えていける。二人なら楽しいことや嬉しいことが増えていく。何が起こるのか、どんな時間を過ごせるのか、楽しみに思える。
「景時さん」
望美の呼びかけに景時が視線を落として望美を見遣る。見詰め合うだけで心が満たされる幸せ。
「もっともっと、幸せになりましょうね」
「……それって、なんだか、すごい贅沢だと思えるんだけど」
「そうですか?」
望美は笑って言う。
「でも、景時さんと私、二人だったらなれると思いません?」
二人一緒なら、きっと何もかも上手くいくようにできると思える。簡単じゃないかもしれないけど。大変なこともあるかもしれないけど。でも、きっと幸せを探すのことも、もっともっと上手くなれるはず。
「……うん、そうだね。望美ちゃんと一緒だったら、できそうな気がするよ」
君と二人一緒なら、いつだって至福の時間を感じられるのだから。