■ 歩幅 ■
ようやっと新年の準備も落ち着いた晦日の午後。望美は部屋でやっと腰を落ち着け大きく伸びをした。準備といっても、望美は義母や朔の手伝いが主で、特に大変であったわけではないけれど、慌ただしい空気がやっと落ち着いたように感じられた。
(来年はもうちょっと私も頑張らないと……! お料理ももう少し出来るようになって)
祝いの膳に盛る料理の準備も、何せ何を作り、盛るのかが望美にはわからないので任せっぱなしだった。向こうの世界に居た頃も、おせち料理といえばデパートで買ったオードブルだったので作ったことなどない。
(もっとちゃんといろいろ知ってたら良かったなあ)
景時も義母も朔も、違う世界から来たのだしこちらのしきたりに詳しくないのは当然だし、邸のことは気にせずに、と言ってくれるのだが、望美としては景時の妻として(!)ある程度のことは出来るようでありたいとも思ってしまうのだ。
(妻だって! 妻だってー!! そうよ、妻なんだからちゃんとしなくちゃなのよ、妻よ妻ー!)
自分でそう思う度に、未だに照れてしまうのだが、事実もう祝言も挙げたのだから周囲の望美への視線はそういうものだ。そう考えてまた内心できゃーきゃーと照れてしまうのだが。今も一人、照れまくって床を叩いている望美の部屋の戸を開け、景時が不思議そうな顔をした。
「望美ちゃん?」
「あっ! あのっ、景時さんっ。いえ、何でもないの。どうかしましたか?」
途端に居住まいを正して顔を上げる望美に、景時も笑顔になる。その景時の服装が外出するものに変わっているのに望美は訝しげな顔になった。
「景時さん、何処かお出かけですか?」
「うん、望美ちゃんも用意して。大祓式に行こう」
顔に思い切り疑問符が浮かんでいたのだろう、景時が手を差し伸べて望美を立たせながら答える。
「大晦日にね、一年の穢れを祓いに行くんだよ」
穢れなら私がちょいっと触って祓うのに、と一瞬考えないでもなかったけれど、景時と出かけるのが嬉しいので望美は頷いた。思えば、昨年は新年を迎えるといっても戦の最中、気を引き締める意味もあって、派手なことは何一つしなかった。新年に詣でることはあったけれど、それも源氏の勝利を願ってのものだった。
「初詣はまた別で行くんですよね?」
「もちろんだよ。それはまた明日ね」
ちょっと遠いから馬で出かけよう、と景時が望美を自分の前に座らせた。磨墨は白い息を吐きながら、常より重い背に少し不満げに嘶く。
「今日は走らなくていいから」
言い聞かせるように磨墨に声をかけるとゆっくりと歩かせる。
「景時さんと磨墨って、会話が出来るみたい」
望美がそう言うと、
「ん〜? 磨墨はちゃんと言ってることがわかるよ?」
と当たり前のように返される。
「え〜? ほんと? 私の言うこともわかってくれる?」
「うん、賢い馬だからね、磨墨は」
にこにこ笑う景時に一瞬見とれた望美は、そっと磨墨の首に触れながら声をかける。
「重いかもしれないけど、よろしくね」
ブルルル、と低く磨墨が応えてくれたような気がして望美も嬉しくなって笑った。
思えば戦、戦で京の外へ旅することが多かった望美は、まだ京の中でも訪れたことのないところも多い。折りを見て景時も連れ出してくれようとはするのだが、いかんせん、まだ戦の後の処理や西国統治のための組織づくりなど、忙殺されていて時間が取れない。今日はまた、久しぶりの2人での散策なのだ。
「景時さん、何処へ行くんですか?」
「火之御子社に行こうかと思ってね。大祓式と、火種を貰って帰るんだよ」
「火種?」
「うん」
そう言って景時は懐から火縄を取り出した。
「これに火種を貰って帰って、その火で新年の雑煮を作るんだって。無病息災を祈るんだよ」
「わあ、じゃあ帰りは火が消えないうちに急いで帰ってこないとですね」
初めてのことで、望美には楽しく興味津々なものばかりだった。道々も、戦の爪痕が消え、活気が戻りつつある京の町や、通りかかる寺や遠く見える山々についてなど、いろいろなことを景時は望美に教えてくれた。梶原邸近くの市中のあたりは度々出かけることはあっても、町の謂われや寺社、京の地理などには全く詳しくない望美にしてみれば、そういう話を聞くのは楽しいものだ。その上、景時は話し上手でもある。
「さあ、ここからは歩いていこう」
参道を示す鳥居の手前で景時は磨墨を止まらせた。
望美を抱き下ろすと、手を差し出す。冬の日の夕方、すっかり辺りも暗くなっていて足元もおぼつかない。灯籠に火は点っているものの、その明かりは頼りないものだ。望美は差し出された手を取ると、そのまま勢い余ったふりをして、景時の胸に飛び込む。
「離れちゃうと寒いですね」
馬上でずっと後ろから抱きしめられていた背中が寒いのだ。頬を擦りつけるようにぎゅっと一度強く抱きついてから体を離すと、手を繋いで歩き出した。
「大祓は夏越の祓と同じで、人形で大祓をするんだよ。
その後、除夜祭があって、それから鑚火が行われるんだ」
「わ、結構かかりそうですね」
「そうだね〜邸に戻るの夜になっちゃうかな。お腹空くから早めに火を頂いて帰ろうね」
こんなところまでやってくる割には、軽い景時の言葉に望美は思わず笑ってしまう。信心深さとはまた別に、望美に気を遣ってせっかくの機会と連れ出してくれたのかもしれない。
「本殿まで、少し距離があるから足元、気をつけてね」
鳥居を抜けて参道を歩く。景時は望美が慌てずに済むように殊更ゆっくりと歩いているようだ。そういうさり気ない優しさが嬉しいと望美は思う。そして思い出したように語り出した。
「景時さんと歩くのってそういえば、前から好きでした」
前から、というのが何時のことなのだろうと景時は首を傾げる。望美は悪戯っぽく笑いながら言う。
「鞍馬に行く時からかなあ」
それがリズヴァーンを捜しに出かけたときのことと思い至って景時は驚いてしまう。
「あ、その頃から景時さんを好きだったっていうのとはちょっと違うんですけど……
九郎さんって、歩幅の違いとか考えずにずんずん先に歩いて行っちゃうでしょ。
景時さんは、ゆっくり歩いて合わせてくれていたんですよね」
「それは〜……ね、九郎と違って、オレは朔っていう妹がいたから
子どもの頃から慣れていたからだと思うよ〜、九郎の名誉のために言っておくけど」
「わかってますよ〜。そういうとこが九郎さんらしいなあって思いますし。
そういう、手加減無しな九郎さんが好きですしね。
でも、本当は景時さんだって歩くの速いんだって気付いた時があって……」
それまで余りに自然に合わせてもらっていたから、そんなことを気にしたこともなかったのだ。
「そのとき、すごく感動したんですよ。感動って変かなあ。
なんだかね、景時さんってすごい人なんだなあって思ったの」
「……なんか、それくらいのことで変じゃない?」
「ほら! 景時さんはね、特別なことって思ってないでしょ?
九郎さんと2人の時は九郎さんに合わせて自然に早く歩いて
私たちがいるときは、私たちに合わせてゆっくり歩いて。
人に合わせてくれて、弱い者がいるときは、そっちに合わせてくれて
無理がないようにしてくれるけど、それを全然、普通にやっちゃうの。
私はね、そういうことが特別じゃなく出来る人って、特別なんだと思ったの」
多分、もう暗くて灯籠の火ではわからないけれど、景時は照れた顔をしているのだろうな、と望美は思う。それでも歩調を崩さずに、望美に合わせて歩いてくれる景時がやっぱり好きだと思うのだ。
「だから、きっと、いつの間にか、そういう景時さんと一緒に歩きたいな、って思ったの。
それで、ね。今も、こんな風に景時さんと一緒に歩くのは好きで、嬉しいなって」
拝殿の辺りにはもう人が集まっている。どこか浮き立っている人々の様子に、足を速めるでもなく2人は同じ歩調のまま進んだ。
「来年も、私と一緒に歩いてくださいね、景時さん
でも、私に合わせて無理はしないで、偶には景時さんの歩幅で歩いてくれていいんですよ?
私、一生懸命追い掛けますから」
それは勿論、こんな風に一緒に出歩くという意味だけではなくて。これから続く長い一生の道を共に歩んでいこうという望美の願い。
「オレは、君がオレの隣で一緒にいてくれるだけで嬉しくて。
無理なんかじゃなくてね、合わせているわけでもなくて。
少しでも長く君といたいから、のんびり歩くのが好きなんだよ」
行く年も来る年も、2人で一緒に歩いて行こうと繋いだ手にお互いそっと力を込めて確かめ合った。