前略、あなたに10の手紙を送ります
■花が散っていこうとしています■
ふと足元にひらひらしたものが舞い落ちて、景時は足を止めた。そっと屈んで手に取れば、それは庭に咲いていた梅の花びらだった。途端に鼻腔に甘い梅の香りを感じる。
(ああ、そういえば咲いていたんだ……)
一年の中でこの季節が一番好きだった。寒いのは苦手だったから、この花が薫るようになると春が来るのだなあとしみじみと思えて。なのにこのところ、ずっと心ここにあらずの様相で、庭に梅が咲いていたことすら気づきもせず、花が香る匂いすらわかっていなかった。もう、梅の季節は終わり、花も最後のものが散っていこうとしている。戦の事後処理に忙殺される毎日。平泉をもう一度攻めさせることのないように、細い糸の上を渡り歩くような遣り取りを景時は毎日行っていた。荼吉尼天の力を失ったとはいえ、頼朝が酷薄な主君であることに変わりはない。平泉は鎌倉に反逆の意志なく、鎌倉にとっての脅威ではないことを示さねばならないのだ。疑い深い主君にそれを証明するのは難しいことだった。平泉との間で妥協点を探るのに景時は日々頭を悩ませていたのである。
知らず、景時は手を胸元へとやり、そこにある甘い香りを放つ香袋を握りしめた。彼女のいる土地はまだ梅が咲いているだろうか? 春の香りを運んでいるだろうか。つい先日、平泉から届いた便りは、健気にも景時を心配する様子を少しも見せてはいなかった。ただただ、逆に景時を心配させまいと、日々の暮らしの楽しい様子や仲間のことを綴ってあった。けれど、痛いほどに彼女の心が伝わってきた。
『早く戻ってきて 会いたい』
平泉で別れるときに、『必ず私の元へ戻ってきてください』と、そう言われたとき。そのときは、また彼女に嘘をついてしまうなんて、と思った。きっと彼女の元へ二度と戻ることなど叶わない、と。けれど、鎌倉に戻る道すがら……不思議に心が変わった。諦めない、と。自分は彼女の元へ戻るのだ、と。どんなになっても……景時から八葉の宝玉が消えても、敵となって再会してさえも、彼女はけして諦めなかった。景時のことを諦めたりしなかった。そうやって手を伸ばし続けてくれた彼女がいたから……きっと自分は、今もこうして在り続けられる。ならば、やはり自分も諦めてはならないと思ったのだ。最初から諦めていたから、彼女にも仲間にも悲しい思いをさせてしまった。だから、今度は諦めずに自分と彼女と仲間を信じようではないか、と。
手にした梅の花びらを眺めて、そんなことを考えていた景時はそのまま縁から庭へと降りて庭の梅の木を見上げた。京邸の庭にも梅の木があった。二人並んでその香りを楽しんだのは、昨年のことだというのに、なんて遠い昔のように思えるだろう。それでも梅の香りは景時にとってこれまで以上に特別なものになっていた。
そっと手を伸ばしてその花をいくつか取ると、大切に懐紙の中に包み込んだ。
大切な人へ文を届けよう。ひっそりと香りの残るこの梅の花と共に。花は散ろうとしているけれど、残り香はいつまでもこの胸の中に残っていると。この花を見て、きっと彼女も春の日の優しい思い出を思いだしてくれるだろう。
『梅花の君』
そんな風に洒落て呼んでみたら、彼女はどんな顔をするだろう? 景時は大切そうに梅の花びらを手に部屋へと戻った。
お題部屋  back next home
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